小説:野薔薇

 と或る時期外れの民宿で、私は特に用事も無く、休憩室の本棚から適当な巻数の漫画を引っ張り出してぱらぱらと捲ったり、一人旅の退屈さを満喫していた。

 煙草に火を点けて灰皿の無い事に気付き、宿の女将を呼ぶと、丁度女将も退屈していた様で、人好きのする饒舌な話ぶりに相槌を打つだけの他愛ない世間話に付き合った。暫くして女将は気が緩んだのか、余り他所様には仰らないで欲しい事ですが、と前置きをしてから語りだした。

 この宿の先々代の主人は大層な薔薇好きで、中庭に立派な薔薇花壇を造り、庭向いの部屋を薔薇の間と名付けたそうだ。主人はそれに留まらず、薔薇専門の召使いを雇い、水捌けの為に池を干拓し周囲の草木を伐採し、決して薔薇を枯落させる事の無い様厳しく管理していたらしい。

 ところが突如異例の大雨が続き、折角の薔薇が枯れかけた。半狂乱の主人は薔薇専用の召使いを絞殺し、土深く埋め薔薇に養分として与え、大雨の危機を脱したというのだ。
その主人が没し、薔薇の間という名称だけを残して、薔薇は総て焼き払った。しかしまた最近中庭に野薔薇が芽吹き、時を同じくして薔薇の間の宿泊客が行方不明になる事件が頻発、警察の捜査空しく原因究明は成らず今日に至る。

 現在は御祓いも済んだが、恐らく薔薇が客人の養分を吸って開花していたのだ、と女将は言い残して去った。私はすっかり気味悪くなり、今日は早目に床へ着き寝てしまおうと決めた。

 部屋に戻り、傍らの表札を見ると薔薇の間と記してあった。私はやっと理解した。あの女将は偶に性質の悪い作り話をしては客を驚かす趣味が有るらしい。薔薇の間に泊まる私に件の話をしたのもその所為なのだ。

 翌日妙な夢にうなされ飛び起きる様に覚醒すると、時刻は午前三時を少し廻った辺りだった。寝汗でじっとり濡れた浴衣を脱ぎ、新鮮な空気を堪らなく欲して中庭に繋がる戸を開放すると、朝露を浴びて輝く蒼い野薔薇の群生がそこに見えた。

 私は一瞬、野薔薇が一斉にこちらを振り向いた様な幻覚に襲われた。

 鉄砲弾の様に急いで鞄に荷物を詰め込み帰り支度を終らせ、廊下を掃除している仲居に宿代を手渡すと直ぐ民宿を発った。途中宿に眼鏡を忘れたことに気付いたが、取りに戻らなかった。

 あの野薔薇は人を喰って生長する。
 幻覚はまだ続いている。

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