小説:図書室

僕は、なんとなく目についたエリオットの詩集に手を伸ばす。
「あっ」
もう一つの手が僕の手に重なり、僕とその手の主は、ほぼ同時に声を上げる。
そして、僕は、恋に落ちてしまった。
「お先にどうぞ」と彼女は言った。
「僕は後でいいですよ」と僕は言った。
気まずい時間が流れる。僕はこういうのが苦手なんだ。すると、彼女は言った。
「あの……私が先でいいですか? 三日で読みます。四日後にどこかで会いましょう」
彼女にリードしてもらう形で、別に異論もなく僕は素直に従った。

四日後はただ本を受け取っただけで、なにごともなく彼女と別れた。愚かにも期待しすぎた僕は、その後せっかく借りたエリオットの詩集を読む気にもなれなかった。妄想ではち切れそうだった頭に風穴を開けられ、みじめにひゅるひゅると空を舞っている感じだ。しばらく何も手につかなかった。
女性上位時代なんて幻想だ。だって、性別がある限り女性が常に上なのだから。そして常に男は、もう読まれぬ本のしおりのような役所である。役に立っていても、すでに役立たずなのだ。
それから数日が経ち、エリオットは僕の中で悪人に近いポジションになっていた。八つ当たりだということは自分で分かっていたのだが、それでもやり場のない怒りをためるのが嫌だったので、エリオットにはしばらく臭い牢を我慢してもらうことにした。

あそこの図書室はたっぷり二週間も借りることが出来る。だから、この本の返却日まではまだ一週間以上ある。真面目に読んだら、たぶん十回以上は精読できるだろう。
それでも悪人の詩集は、読まれるどころか開かれる気配すらなかった。もし、こっそり中身がベルセルクに入れ替えられていても僕は気づかなかっただろう。実は本は外部だけで、内部のくり貫いた部分にエリオットの脱獄セットがピタリと収まっていたとしても、やはり気づかなかっただろう。時折そんな馬鹿げたことを想像してクスクスと笑ったりしていた。

返却日は刻々と迫り、それと共にエリオットも大泥棒に格上げ(?)となった。そしてだらだらと時間は過ぎ、彼の罪は晴らされることなく、同時に読まれることもなく、本を返す日になったのだった。
よくよく考えると、別になにがあったということでもないのだが(むしろなかったことに思うところがあるのだが)僕は怪盗エリオットの詩集を図書室の本棚へ隠すように、できるだけ目につかない場所に返していた。隠した場所は早く忘れよう、そう思った。

それ以来、図書室で彼女を見かける度に、なんとなく意識してしまって、目を伏せて歩いたりした。こっちが意識すると向こうもこっちを見てるような気がして、それがまた僕を嫌な気にさせるのだった。
こんなときに「こんにちは、よく会いますね」と挨拶できたら、俺の人生も少しは明るくなるんだろうなぁ、なんて真剣に思って、馬鹿らしくなってやめた。どうせできないんだ。キャラがちがうんだ。

だいたい彼女がいるやつはどうやって見つけてくるんだよ。声をかけるのか。声をかけられるのか。意志疎通なしにいきなり彼女と呼べるわけがないから、やっぱり声をかけたり、かけられたりするんだろう。でもどこからが彼女で、どこからが彼女でないのか、そういう境界線めいたものはあるのだろうか。経験しなければ分からないことなんだろうか。それでもたぶん、つき合う二人の間柄なんて第三者が勝手に判断するものなんだろうな。そうしないと……。

一端考え始めると、僕は巡回迷路の犠牲者のようなもので、適当に疲れるまで延々と歩きつづけるはめになる。癖と言ってもいいかもしれない。
恐らく、背後から斧を持ったジャック・ニコルソンに追われるような、かなり特殊な事態にでも発展しない限り答えなんて見つからないのだが、そんな特殊な事態などはその答えが見つかる確率よりも遙かに期待薄だった。そういうものである。そういうものだから仕方がないのだ。ジャック・ニコルソンだってそんなに暇じゃないんだろう。

「読みましたか?」
ビックリして前を向くと彼女が立っていた。急で声が出なかった。
「え、ああ。その、うん、読んだけど」
「それで、どう……でした?」
意外な質問だった。あの本の感想を訊かれたのだろう。もちろん読んでないから、答えられるはずもない。冷や汗が出る。しどろもどろになる。考えがまとまらない。言葉が間抜けな僕を後目にテクテク逃げていく。
遠くの方で魔王エリオットの笑い声が聞こえた。
「いや、別に何も……」
そう言ってしまってから、ハッと気づいた。俺は馬鹿だ。わざわざ感想を訊いてくるということは、それなりの理由があったからにちがいない。それなのに「別に何も」とは……、あんまりにもほどがある。馬鹿俺、馬鹿俺、馬鹿俺俺。
そして、こんな風にして恋愛の芽を刈り取ってたんだな、と初めて理解した。ジャック・ニコルソンに感謝である。

僕がそう言った後、彼女はしばらく下を向いたままで表情がよく分からなかった。のぞき込むのも変だったからやめた。少し時間があいて、そして、彼女はすごい勢いで外に飛び出し、僕の視界から消えてしまった。ちいさく「サヨナラ」と言っていたようにも聞こえたが、良くは聞き取れなかった。
にわかに僕の世界は慌ただしくなり始める。範疇を超えた出来事だからだ。
どうして駆け出すんだ? 嫌がられたのか? まさかなぁ。嫌がるくらいなら最初から声なんてかけないだろうし。じゃあどうして? 女心ってやつか? 女心と秋の空ってやつか? ハハ、俺、詩人になれるよ! 詩集でも出すか! でもこれ全然詩じゃねえな! ああ! もうワカンネエヨ! なんだ。俺がなんか悪いことでもしたんか。そうだったら言ってくれればいいのに……。

後悔は先に立たない。そして、役にも立たないことを知った。
ジャック・ニコルソンが微笑みかけてくれているじゃないか。落ち着こう俺。
とりあえず、ここでいくら考えても無意味だし、だからといって追いかけても無駄だろう。今から彼女を追いかけて言い訳をするぐらいなら、きちんと詩集を読んで、それから改めて出直した方が良いような気もする。こんなことになるなら、あのときちゃんと読んでおけばよかったのだ。中身がベルセルクだったら、ツッコミのひとつでも入れられたはずである。

すると大魔王エリオットは益々調子に乗りだしたようで、ケラケラと高笑いをはじめた。心が引っ掻かれたように痛んだ。その高笑いは忘れようとしたあの場所から聞こえてきた。
僕は思う。心が揺れるのは当たり前、動揺なんて日常茶飯事。だから、恐れずに、それらすべてをまず認識してしまおう。そして、いざその状態になったとき、自分の姿を一気に客観まで押し上げてしまうのだ。そうすれば何も怖くない。動揺している僕を見つめる違う僕の存在を感じればいい。心のブラックボックスの前にもう一層の意識をつくり出す。辛くなったらそこに逃げ込めばいい。僕に近づけるものは何もなくなる。
空気の流れを感じた。そう、まず僕がすることは、高笑いをつづける彼と仲直りし、少なくとも大魔王を人間の姿に戻し、そして彼の紡いだ詩を読むことだった。

本を返した場所に着く。忘れられやしないんだ。そして気がつくと、弾かれたように僕は走り出していた。彼女を追いかけるために。そして謝るために。

理由は、詩集のあるページに挟まっていた小さな紙のしおりである。
それには丁寧な字で、こう書いてあった。
「私はこの詩がいちばん好きです。あなたのお気に入りはありますか? よかったら今度教えてください」

彼女に追いついたら、なんて言おう。すごく言いにくいことだけど正直に言おう。しおりのことを知らなかったんだ、ってそう言おう。しっかり自分の言葉で伝えよう。いや、その前に名前を尋ねようか。ああ、もっと速く。速く走れないものか。スニーカーを履いてくれば良かった。彼女ここまで電車で来てるのかな。もしそうだとしたら向かう方向は駅だけど、もし自転車だったら、駐輪……

ビーッ! ビーッ!

走って通過した図書室の出口で、ひどく耳障りな音がした。僕は持っていたエリオットの詩集を危うく落としそうになった。受付の女性が言う。

「あなた、その本、貸し出し希望ですか?」

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