小説:ソのシャープ

――この前の、そう、お稽古の時にね、子供たちにドレミの歌を教えてたのよ。それで……ちょっと、聞いてる? いやだわ、もう。それでね…

通路は不規則な黒白模様で、ピアノの鍵盤の上を歩いているようだった。
滝沢杏子はわざとらしく足音を立てて歩いたが、当然コツコツと靴底の音がしただけだった。この廊下は少しできすぎている、と杏子は思った。
鍵盤はだらだらとロビーにも続き、正装した人々に乱雑な演奏をされていた。杏子が人波を泳ぐように進んでいると、おほほ、という笑い声が聞こえ、それがまさに、おほほ以外の何ものでもない笑い声で、とても可笑しかった。
今日は杏子の友人、片瀬頼子のピアノ・リサイタルが行われる。

――その時ふわーっと頭によぎったの。ああ、人生ってドレミの歌みたいだわ、って。あはは、この歌なら杏ちゃんだって知ってる歌でしょ?

正直に言うと冷やかしに来たのだ。電話で、アンタなんか絶対に寝ちゃうわ、と言われていたせいもある。しかしその気も失せてしまった。
まず会場が大きい。頼子の控え室を捜すつもりが、またロビーに戻ってしまった。そして客層に品がある。つまり、みんなお金持ちっぽいのだ。もともとピアノ・リサイタルはそういうものなのかもしれないが、滅多に出向かないので(実は今日が初めてだが)それもよく判らない。
改めて、頼子は”おほほの世界”にいると実感した。冷やかしどころではない

――人はね、生きながら歌って、歌いながら新しい音階を覚えていくの。ドの次はレ、レの次はミって。ドレミファソラシド、ドレミファソラシドってね。

人に訪ねるのが頼子の控え室までの一番の近道だろう。実は廊下のぐるりを一周する前からそれは判っていたことだ。それでも誰にも訪ねなかったのは、単に、誰に訪ねるかを決めかねたせいだ。人がたくさんいて、そのほとんどが正装している。誰がスタッフで誰がそうでないのか、その区別は当のスタッフも目印なしにはできないだろう。そして、きっと五分おきに目印を見ては、自分が本当にスタッフかどうかを確認する者もいるに違いない。
そうか、目印を捜せばいいのか。

――ひとつずつ経験していって、ひとつずつ覚えていって、いつか自分だけのオリジナルソングを歌うために、人は生きているのよ。それが、ドレミの歌みたいだなって思ったの。

頼子は真剣な顔でピアノを弾いている。当たり前だ。目印のスタッフは私を、控え室ではなく、コンサート・ホールに案内してくれた。もう始まりますよ、と言うのだ。電話での、アンタなんか絶対に寝ちゃうわ、というセリフが私の精神に影響し、無意識に睡眠を多くとった(つまり寝坊した)せいであまり時間がなかったのだ。それと、廊下を一周したこともかな。
私たちは今でもよく遊ぶし電話もよくする。しかし、ピアノを弾く頼子の姿は中学生の時以来見てなかった。
頼子の顔は真剣だ。なにより、ニキビがない。

――何よお。別にいいじゃない、私がマジメになったって。たまにはアンタもマジメになさいよ。……そうね、私のドレミで言うならアンタはソかな、ううん、私の、ソのシャープね。

たくさんの拍手にまぎれて私も拍手をしましたよ。アナタはいつになくお堅い顔をしていたので、バッチリ写真に撮っておきました。すごいですよ、顔。汗とかで。うふふ。しばらく私こと杏子は、ひめ屋のケーキを美味しくいただけそうです。
アナタのソのシャープは、写真を強迫に使うつもりですよ。お気をつけあそばせ。

(おわり)

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