映画『暖流』を見る

増村保造監督の作品は登場人物のパーソナル・スペースが独特で面白い。

監督がイタリア留学していたからかもしれないが、すぐそばに立ったり、顔を近づけてしゃべったり、日本ではあまり見かけない人ばかり出てくる。しかも、いがみ合う二人にかぎって鼻息がかかりそうなくらい顔を引っつき合わせて喧喧囂囂とやりあい、好き合う二人は距離をとって求愛したりする。リアリティがあるとも言えるし、ないとも言える。全体的になんというかそれはちょっと変でしょう、とツッコミ入れたくなる増村ワールド。とてもすばらしい。

映画『暖流』もほかの作品と同じように、登場人物たちが顔をつき合わせててまったく暑苦しい。きっと画面がスタンダード・サイズだったことも影響しているだろう。

パーソナル・スペースとはちがうけれど、『暖流』は他人のプライバシーにずかずか踏み込む。とくに看護婦のぎんは平気でプライバシーの一線を飛び越えるので、そのせいで後半ついに男に想いが通じるというくだりが冴えないと感じた。押しつけがましい女に男が根負けして両想いになった、という風に見えてしまうのだ(でも狙ってやってるんだろう)。それに、脚本の段取りが足りないせいか、男も唐突に根負けしたように見える(これも狙ってそうだが)。

おそらく、看護婦ぎんを気のふれた人として演出してしまったため、男が根負けするまでの段取りを丁寧に描こうとすると「そんな変な女を好きになるか?」などの疑問点が出てしまい、粗が見えやすくなる……そういう判断があったのではないか(ここまではいい)。そこで、二人が水浴びをするなどの情緒的なシーンに「男が根負けする理由」をすべて託し、一気に両想いにして、やりすごした(ここが気に入らない)。

まあ、はっきり言って看護婦ぎんは狂っているので、そんな人を好きになる男の心情なんか、はじめから説明する気がなかったのかもしれない。でも看護婦ぎんと両想いになったせいで男の凋落がはじまる(増村節!)んだから、ストーリー的にもちゃんと描かないといけないような気がするんだが…。

院長の娘が若い医師に求婚されていて、それを看護婦ぎんがこっそり立ち聞きしているシーンが印象に残った。人目をはばかる二人が来るような場所であり、看護婦ぎんが都合よく隠れられるものがある場所でもあり、舞台は病院のなかだ。そういう場所はどこがいいのか? それは洗濯ものの白いシーツがたくさん干してある場所だ! この発想が映画的だな、と感動した。でもって、たくさんのシーツをわざわざ風になびかせて撮ってる。うーん、すごいぜ、増村。

ほかの増村作品にくらべると好みじゃないなぁ、なんて思っていたが、このシーツが風になびくシーンと看護婦ぎんの奇行だけでも見たかいがあった。あと、

「恋するって、すれっからしになることなのよ」

これは名言だと思った。言うまでもなく看護婦ぎんのセリフである。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存