映画『太陽』

吉祥寺バウスシアターでアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』を見てきた。混雑を予想して上映30分前に着いたが整理券は50番台。映画館は若者からお年寄りまでのはば広い客層でごったがえしていた。

太陽』は映画的としか言いようがない映画だった。あまりにも映画的すぎるために、観客はとほうに暮れるしかないだろう。なにしろ、この映画は、見た人によってさまざまな解釈ができるように、わざわざ重層的な意味を持つイメージをたわむれさせているのだ。

たとえばナマズ。イッセー尾形さんの演じる天皇は、お昼寝の時間に、ナマズのような爆撃機が東京の街を空爆する白昼夢(?)を見る。また、天皇が米国の司令官にたいして「趣味は海洋生物学です」と言い、ナマズの生態を語る場面もある。そこで天皇は、ナマズは完璧だ、美しい、と語る。

このふたつのイメージをつなげると、天皇は東京を焼き尽くす爆撃機を美しいと言い、賞賛しているのだろうか、と思わせる。天皇が「誰も私のことを愛してくれていない」と、国民の愛を疑う場面にもつながる。天皇は、国民よりも爆撃機を愛したんだろうか?

ここで、太陽神の子孫、現人神による国民への裁きの雷だ、と思う人もいるだろう。国の一大事に海洋生物学にうつつを抜かすのは、天皇が国民を見殺しにしたのと同じだ、と思う人だっているかもしれない。逆に、趣味の海洋生物学に逃げ込むしかなかった天皇の状況、葛藤、苦悩、を思う人もいるだろう。

いったん、ナマズを「天皇による爆撃機の賞賛」という意味で取ったとする。ところが、御前会議の場面がその意味を裏切る。この場面で天皇は、昭和天皇の歌を引用して、国民に平和をもたらすために降伏を決断する。ほかにも、暗闇に包まれた国民に太陽がさすときがくる、という天皇のセリフもある。

天皇が大広間のたくさんのロウソクをつぎつぎに消していく場面。このロウソクを消す行為は、爆撃機が国民の命を、街の光を消していくイメージにつながる。あるいは、爆撃機の空爆で生まれた街の炎を天皇が消していくイメージにもつながる。どちらとも取れる。天皇は、爆撃機を愛したのか? 国民を愛したのか? 両方を愛したのか? いや、けっきょくどちらも愛せなかったのか?

画面の右に光源、左に人物というレイアウトがくり返される。ひとつは室内のライトのもとで、陸軍大臣が本土決戦について語る場面。もうひとつは窓越しの月のもとで、天皇が机に向かって書きものをする場面。これは反復による強調なのか? 反復による対比なのか? 対比をもって強調しているのか? 対比をもって差別化しているのか? おそらく意図的にあらゆる解釈を許すように仕組んでいるのだから、どれでもいいのだろう。見た人がそれぞれ感じるしかない。

こんなふうに画面に映るイメージの意味作用を読みとろうとすると、たったひとつのイメージでさえ膨大な意味をかかえこんでいる。仕方なく、ごく貧しい意味で読みとって次なる画面に目を向けると、その読みとった貧しい意味を強調するイメージも登場するし、逆に裏切るようなイメージも登場する。万事この調子で、だんだんわけがわからなくなる。わたしは、その混乱がじわじわと快楽になってきて、たまらなくぞくぞくしたのだった。

米兵たちに「チャップリンだ」と言われて写真を撮られる天皇の姿が印象的だった。この映画のタイトルである、みずから光を放つ太陽が、写真として影に焼き付けられる存在になった。現人神である昭和天皇が人間となった、と象徴的に描かれていた。

こんな芸当は映画にしかできないだろう。問答無用の映画的体験だと思う。必見!

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存