宮﨑駿と「触ること」、宮﨑駿的な瞬間とは

ピザを注文したらアニメのプロモーションDVDが付いてきた。まったく思いがけない付録だったが、『ハウルの動く城』と『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』と『となりのトトロ』などのトレーラーが入っていたので、どれどれと見てみた。

トトロはこうやってぶつ切りの映像で見ると、いよいよ不気味でうすらこわい。なにを考えているかわからないし、どこを見てるのかもわからない。その存在はかなりあやうい。

でも主人公の子供たちは、毛むくじゃらの胸をふわふわ撫でてみたり、においを嗅いでみたり、あやうい存在のトトロとひたすら物理的な接触をかわす。その物理的な接触を通して、見ている私たちもトトロという存在に親しみが湧いてきたりする。

思い出すのは『天空の城ラピュタ』のパズーとシータの出会いだ。パズーは空から降ってきたふしぎな少女を抱きかかえて、その物理的な重さを知ることから関係がはじまる。『ルパン三世 カリオストロの城』のルパンとクラリスの出会いも同じように、ふたり抱き合いながら、ロープでガケに宙ぶらりんになる(たしかこのシーンの絵コンテに「少女は触られなくないので身を固くしている」と書いてあることに注目したい)。ロープが外れ、落っこちたクラリスをルパンが受け止めるのは、パズーとシータの出会いにそっくりだ。

いずれも「触れること」を通して他者と出会う表現だ。宮﨑駿的な「触れること」はほかにあるだろうか。

代表的なのは『風の谷のナウシカ』で、ナウシカが小動物のテトと心をかよわせるために、指を噛ませ、その痛みをじっと我慢するシーンだろう。『もののけ姫』の主人公ふたりのクライマックスに、サンがアシタカを刺し、刺されたアシタカがサンを抱きしめる場面も、なるほど「宮崎駿的な瞬間」だ。シシ神が地面に足をつけるたびに植物が萌えて枯れるシーンにも、触れること、それにともなう痛みが、神のまがまがしさと神聖さを画面いっぱいに行き渡らせていたと思う。

大きな時計の秒針にはさまれてペチャンコになったカリオストロ伯爵は、まさに「触れること」の犠牲者と言える。

千と千尋の神隠し』のラストで、ハクの正体が実は川だったと知らされる。いかにして少女に触るか……この作品のポイントはここにある。少女を丸ごと飲みこむように、すみからすみまで触りたい。からだの表面だけじゃなく、シワの一本一本の深いところまで、できることなら内臓まで侵食して触りたい。そうするには、どうしたらいいか。液体がいちばんじゃないか。だからハクは川で、千尋はそこで溺れた経験があったんじゃないだろうか。集大成にふさわしい、少女の飲みこみっぷりだと思う。

魔女の宅急便』の主人公キキは、ぜんぜんなにかに触ろうとしない。あるとき触ろうとしたり、それを避けようとしたりする。なぜか。おそらく、この作品の「触ること」は「成長すること」なんだろうと思う。思春期によくある、大人になりたい気持ちと、大人になりたくない気持ちのあいまいな状態を「触ること」で表現しているのではないか。

そう考えると、クライマックスで落下しそうなトンボに触ろう触ろうとがんばるキキは、大人になろうなろうとがんばる少女だと言える。キキが使い慣れないホウキでぐらぐら揺れながら飛ぶ姿は、大人になるための理不尽な困難に立ち向かっているようだ。そんなキキの姿を、まわりの人々は「がんばれ、がんばれ」と応援してくれる。

冒頭で、一人前になるための修行に旅立つキキが、ホウキで飛び上がるとき木々にぶつからないといけないシーンなども、いかにも象徴的だと思う。

こうやって宮崎作品の「触れること」を挙げていったらキリがない。触れてみること。そして、触れながら、それぞれが決してひとつに融合できない痛みを感じること。よくわからない存在に触れてみること。その感触を通して存在をさぐっていくこと。他者という痛みを感じること。これはきわめて「宮崎駿的な瞬間」なのだと思う。

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