アニメーションのエロスとタナトス

石ころでも紙に描かれた絵でもなんでもいいんですが、それが動くとまるで生きてるように見えます。簡単な丸の絵をいっぱい描いてパラパラアニメにしてみましょう。そのぶよぶよ動く様子は、まるでミジンコのような原始の生命を感じさせます。

そいつが知能をもって、物語のなかで恋に悩んだり、友の死に悲しんだりすると、今度はこころがあるように見えてきます。観客は、石ころや絵が恋に悩んだり、友の死に悲しむ姿に自分を重ね合わせて、いっしょに悩んだり泣いたりできる。共感できる。これが私の考えるアニメーションの「エロス」です。

たとえば宮崎駿監督の『となりのトトロ』は、ご存知のとおり、すてきなエロスの体験ができます。観客は見ながら、姉妹といっしょに病気のお母さんを心配したり、迷子になって心細くなってみたり、猫バスを「やわらかそう、触ってみたいな」と思ってみたりします。よくアニメは子供向けなんて言われますけど、大人だってこのエロスの魅力にはめろめろになっちゃいます。

日本人はかなり高度な抽象化を日常的に行っているようで、かたちのないものにかたちを与えて、すぐにキャラクター化して遊ぶことができるようです(これは民俗学系の妖怪研究の本を読むとよくわかります)。アニメが日本で受け入れられる土壌はもともとあったのでしょうね。まあ、それはともかく、アニメーションの魅力のひとつは、その「エロス」にあります。

もうひとつの魅力は「タナトス」です。エロスと矛盾するようですが、どうやらアニメーションはそういうものらしい。石ころがまるで生きてるように見えるというエロスを裏からしっかり支えているのは、なにより石ころは「生きてない」ことです。「生きてない」ものが生きているように見えるからこそ面白く、魅力的になるのです。

ところがたまに、アニメのキャラクターがとんでもない告白をする作品があります。

「わたしは紙に描かれた絵なんです。姿はあなたたち観客とそっくりですけどね、実は生きてないんですよ」

アニメが自分はアニメなんだってばらしちゃう。まさに、とんでもない告白です。フロイトが言うところの自己破壊に向かう死の本能、つまりタナトスです。エロスが命のよろこびの光だとしたら、タナトスは死のひんやりした闇を思わせます。

たとえば、りんたろう監督の作品を思い出してください。そこに出てくるキャラクターたちの多くは、姿かたちはわたしたちによく似ているけれど、なにを考えているのかわからないことがほとんどで、こころがないように見えるから共感すらできない。りんたろう的キャラクターたちは、物語に与えられた役割をこなす、ただの記号、ただの人形のように見える。

生きているように見えるけれど、生きているわたしたちとは決定的にちがう人形は、「わたしはアニメです、虚構の存在なんですよ」と告白しながら「生きて」います。そんな人形たちがきれいに飾り立てられて、歌って踊っておおさわぎする。りんたろう監督作品は、まるで死者のお祭りです。アニメーションのもうひとつの魅力は、そのタナトスにあります。

アニメーションのエロスは、作品のなかのキャラクターがわたしたち人間とそっくりになろう、生きようとする。そして、それを見るわたしたち観客のよろこびと共感で成り立っています。

いっぽうタナトスはどうでしょう。タナトスと向き合った観客はどんな感想を持つでしょうか? これは人さまざまですが、死の闇を見つめるまなざしが捉えるものは、エロスのような喜びに満ちたものとはちがうでしょう。

わたしの個人的な印象で言いますと、タナトスを見るのは、人間そっくりの球体関節人形を見るときの気持ち悪さに似ています。あるいは、ベッドに寝たきりで、しゃべることも自分でごはんを食べることもできない、介護される老人を見るような気持ち。

そのものずばりの死体は「生きよう」としてないから、エロスが感じられないから、ぜんぜん平気なんですよ。生きてないのに「生きよう」とするもの、人間のかたちなのに人間らしくないものに、ふしぎな魅力を感じます。観客に死を見つめさせるタナトス的な作品がよく「お祭り」、いわゆる祭祀を演じる理由もそこにあるような気がします。

りんたろう監督『メトロポリス』のティマは、そういうタナトスの魅力を象徴的に表していますね。ティマは、わたしたちの姿にそっくりだけど、こころがないロボット、人形です。そんな人形であるティマが美しく舞いながら、世界をぶっ壊す。

りんたろう作品の特徴は、アニメーションのタナトスの魅力をぞんぶんに描いているところでしょう。宮崎・高畑作品は楽しめるけど、りんたろう作品が楽しめないという方は、アニメーションの一面しか見てないのだとわたしは思います。それはちょっともったいない。

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長い前ふりになりましたが、『ゲド戦記』もそういうタナトスの魅力にあふれた作品でした。神話を下じきにした作品なのでタナトス的になってます。神話は物語の構造そのものがテーマと直結しているもので、その構造を崩さないよう守るために、出てくるキャラクターは物語の役割をたんたんとこなすだけの記号、人形になるんですね。キャラクターがいちいち感情にふりまわされる人間らしいやつだと、物語の矛盾や混乱をうまくこなしていけませんから。

なんで神話は物語に矛盾や混乱をふくませるんだ、すっきり整理整頓すればいいじゃん、と疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。でも神話には矛盾や混乱が必要なんです。なぜなら神話の矛盾や混乱は、むかしの人々がこの世界の矛盾や混乱をそのまま丸ごと理解するための工夫だったからです。

現代の哲学はこの世界をばらばらに分解して、すっきり整理整頓して理解するものですが、むかしの哲学(神話)は分解せずにいっしょくたに飲み込むものでした。とうぜんエンターテインメントじゃないけれど、でもだからこそ時代を超えるほどの力強さが神話に生まれます。

わたしといっしょに見に行った同居人は、主人公アレンが持ち出した「魔法の力で抜けない剣」をふしぎがってました。まるであの剣がほしいから父を殺したように見えるのに、魔法で抜けないなんて変だね、なんて言ってました。それはエディプスの神話とその役割を考えればわかります。

思春期の男の子は、未熟な自分を認めたくないばっかりに「お父さんが邪魔してる!」と考える。ほんとは自分には力があるのに、父に邪魔されて発揮できないだけなんだ、と。だから父を殺す。そして自分のほんとうの力である「剣」を手に入れる。でも、ほんとうの力なんて幻想なんですね。したがって「魔法の力で抜けない剣」である必要がある。主人公がちゃんと自立したときに、はじめて「斬りつけることのできる剣」になるのは、神話の物語の構造上そうなっているものだからです。そこに人間くさい感情なんてないんです(あってもいいですけど)。

ゲド戦記』の面白さは、エロスの代表格であるジブリで、タナトスの魅力にあふれる作品だったからです。これは衝撃的でした。宮崎駿や高畑勲が築きあげてきたエロスの城をくるっとひっくり返して、タナトスの谷をつくってしまった。ジブリの築いたエロスの城はとっても頑丈なものだったので、だからこそひっくり返すことはそんなにむずかしいことじゃないはずです。でも、ひっくり返そうなんて発想はすごい。

観客はびっくりしたと思います。大人も子供も、エロスの魅力にめろめろになろうと劇場に駆けつけたら、待っていたのは冷たいタナトスの大鎌だったのですから。生命の光を求めたら、逆に死の闇がぽっかり口をあけていたようなものです。『ゲド戦記』が不評なのは、ある意味でとうぜんの結果です。

ただ、くり返しになりますが、アニメーションのエロスだけを認めて、タナトスを認めないのは、いかがなものかと私は思います。エロスばかりを求めていたら、そのうちエロスの魅力すら失いかねません。つらくてもアニメーションのエロスとタナトスの両方をいっぺんに見つめる成熟した観賞が大切なのではないかとわたしは思います。

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