世阿弥『風姿花伝』(5/6)

風姿花伝』には「この藝において、大方、七歳をもて初めとす」とあり、能楽は七歳ごろに学び、教わりはじめるらしい。

能楽は家のものに芸を伝える「一代一人の相傳」だが、この七歳くらいの時期は学習に都合のいい時期なのだろう。よく「七歳までは神のうち」と言われたりもする。子供を育てた経験があったら、ピンとくるのかもしれない。

禅の臨済宗では五、六歳での出家得度がいいとされている。出家の場合は、五、六歳ぐらいが親離れしやすく、禅林の生活やしきたりに順応しやすいと考えられているのだろう。おそらく経験的、実証的にわりだされた年齢である。ちなみに一休宗純は六歳で安国寺に入った。良寛はなんと18歳だった(22歳説もある)。

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足利義持が男色を好み、赤松満祐を寵愛したことは有名である。また室町時代は人身売買が横行して、幼い男は貴族や武家に玩童として売られたという。これらの状況から『風姿花伝』の若いシテの「時分の花」に男色のにおいをかぐのは、わたしの考えすぎだろうか。

この別紙口傳、當藝において、家の大事、一代一人の相傳なり。たとひ、一子たりと云ふとも、不器量の者には傳ふべからず。「家、家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす」と云へり。これ、萬徳了達の妙花を極むる所なるべし。

この「器量」は、ふつうに読み取れば「才能」のことだろうけど、「容姿」の意味ととり、貴族や武家への愛玩を目的にしていたと考えるのは、いきすぎだろうか。

容姿も言ってしまえば才能のひとつである。生まれ持っての品格があり、芸の飲みこみが早くても、容姿が美しくなければ道をあきらめさせるなんてことも、時代の風景を考えればあったんじゃないかと思う。なにしろ、この時代の能楽は、パトロネージュと切っても切れない関係なのだから。

男色うんぬんとこだわるのは、実は一休宗純の『狂雲集』にも歌われているからだ。禅宗の臨済五山には男色が咲き乱れていた。能楽はどうだったんだろう。

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