世阿弥『風姿花伝』(1/6)

世阿弥『風姿花伝』を読んだ。詳しい解説はその筋の方にまかせて、わたしは気になったことをずらずらと書いてみる。

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気になった部分を二点ほど上げる。

まずは一点目。能楽はからだを使ったパフォーマンスと音なので、記録やかたちに残らない。世阿弥の生きた室町時代にはとうぜんビデオやDATはなかった。アニメーションもなかったから絵に描いても動きが残らない。この時代の芸術で、記録やかたちに残るものといえば、紙の書物である。

この点で、同じ時代を生きた一休宗純の『狂雲集』とくらべるとちがいがはっきりする。『狂雲集』には、『三体詩』や『唐詩選』などの詩集、『臨済録』や『碧巌録』などの禅語、『平家物語』や『荘子』などの文学から、たくさんの引用があり、換骨奪胎がある。いま風に言えば露骨なパクリもある。書物は記録として残るから、こんな創作もありえた。中国文学の引用から明らかなように、かたちがあるものは海を越えることもできた。しかし、能楽にはこれができない。記録やかたちに残らないことが『風姿花伝』を書く動機のひとつでもあるだろう。

二点目。能楽はお客さんがいてはじめて成立するものだということ。書物は記録に残り、かたちに残るから、いずれ読まれるであろう誰かに向かって書くことができる。しかし能楽は、見物人がいなければ作品(能では曲という)をはじめることすらできない。見物人がいて、演じられる場があって、能楽は成り立つ。この本の表現で言えば「見所を本にする業」である。

この二点を前にして、さて、能楽師にはなにができるのか。なにが能楽の魅力になるのか。この問いの答えが「花」というコンセプトになったのだろうと思う。能楽の「花」を知ることが、この道の奥儀をきわめることだ、と世阿弥は言う。この「花」がどういう意味なのかよりも、どうして「花」ということばを使ったのかが興味深い。

そも/\、花と云ふに、萬木千草において、四季折節に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり。申樂も、人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで殘るべき。散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、先づ、花と知るべし。住せずして、餘の風體に移れば、珍しきなり。

見物人のこころに珍しくうつり、面白いと思われるものが、「花」であると説く。

記録やかたちに残らない能楽は、見物人のこころに思い出として、記憶として残すしかなかった。面白いと感じた人たちがリピーターになり、目利きになり、その面白さが理解され、語りづがれなければ能楽は廃れてしまう。そのための起爆剤として「花」が重要視されたのではないかと思う。

「花」ということばのコノテーション(ふくみ)は、もちろんそれだけではなく、時おりおりの変化もしめすだろう。それは能楽師の成熟、からだの変化や、芸の変化に結びつく。若いときの姿の美しさや声のよさは「時分の花」であり、いずれ散ってしまう。年老いてなお失わないものが「誠の花」で、こちらは心がけや工夫、能への理解を深めることで咲かせつづけることができると説く。

たとえば鬼のものまねを究めたとしても、そればっかりを演じていると、見物人に「鬼のまねがうまい人だな」と思われてしまうという。そうすると、どんなにうまく演じたとしても、珍しい感じがしなくなる。つまり、花がなくなる。

花といふは、餘の風體を殘さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、珍しく見ゆるる所、これ、花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずる爲手は、巖ばかりにて、花はあるべからず。

幽玄なものがうまい人だな、と見物人が思い慣れたときに、こわい鬼をやれば珍しく見える。花がある。見物人がなにをもとめているか、時代がなにをもとめているかを「時の花」と言い、それに合わせて、究めたいろいろなものまねのなかから最適なものを選んで演じろ、と『風姿花伝』では説かれている。

物數を極め盡したらん爲手は、初春の梅より秋の菊の花の咲き果つるまで、一年中の花の種を持ちたらんが如し。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、取り出だすべし。

態(わざ)の種をいっぱい持っていれば、一年中、花を咲かせることができる。これを「花は心、種は態(わざ)」と言う。べつのところでは「十體を得たらん人は、その内の故實・工夫にては、百色にも亙るべし」と書いてある。そして最終的に、「誠の花」はどういうものか決められるものではなく、それは「時の用」である、と説く。

ずーっと読んできてはじめて、有名な「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」の意味がよくわかった。能楽師が珍しいことをやろうとしているぞ、なんて見物人が知った場合、珍しいことを期待してしまう。期待されているときに、珍しいことをしても、ちっとも珍しく見えない。見物人は「花」なんて知らない方が楽しめるのだ。

能楽師は、この秘事を隠すことはもちろん、秘事を知っていることすら、人に知られてはならないのだという。弓矢の道などと重ねて「諸道藝において、勝負に勝つ理なり」と書くほど、これは重要なのだと強調する。

敵方用心をせぬ時は、此方の勝つ事、なほたやすかるべし。人に油斷させて勝つ事を得るは、珍しき理の大用なるにてはあらずや。さるほどに、我が家の祕事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。祕すれば花、祕せねば花なるべからず。

まことにきびしい教えである。武道の勝ち負けを同じレベルで語るところも、記録やかたちに残らない一回性のパフォーマンスを「どう見せるか」に腐心した能楽らしいところだと思う。それはまさに能楽師と見物人の真剣勝負なのだ。いい例ではないけれど、推理小説はトリックがばれてはいけないし、また、トリックがあるということも知られてはならないことに似ている。

風姿花伝 (岩波文庫) 狂雲集 (中公クラシックス) 臨済録 (岩波文庫) 碧巌録〈上〉 (岩波文庫)

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