細田守と食べものの物語

目次
01.おいしそうな作品
02.物語りはじめる食べもの
03.波紋のひろがり
04.食べものへの関心
05.やっかいな状況、ほほ笑ましい状況
06.スイカふたたび
07.映画の特徴
08.不自然なさりげなさ
09.細田作品はいかにして死ぬか
10.毒食らわば皿まで

01.おいしそうな作品

わたしは細田作品を家で見るとき、たいてい飲みものやツマミを用意することにしている。見ているうちに決まってお腹が空いてくるからだ。こんなことを言うと食いしん坊みたいで恥ずかしいが、実際に細田作品には、いたるところにおいしそうな食べものが登場するんだから仕方ない。

思いつくままに劇場版『デジモンアドベンチャー』の食べものを列挙してみると、タマゴ、目玉焼き、牛乳、食パン、バター、ジャム、サラダ、チョコレート、猫のエサ、ケーキ、カレー、お酒、缶ジュース……。20分しかない映画なのに、けっこう多くの食べものが出てくる。セリフで語られるだけで、画面に映されないものもあるが、とにかく食いしん坊にはたまらない作品なのである。

誰もが知っている細田作品のあの対象から遠い位置に置かれたキャメラは、それにもかかわらず、食卓にならべられたものや、食器や冷蔵庫などの中身をくっきりとわたしたちの視界に浮き上がらせる。だからお腹が空くのかもしれない。劇場版『デジモンアドベンチャー』の朝の食卓は、パンはパンだし、サラダはサラダとしか考えられない色どりでならべてあって、幼い太一の料理のうでまえなんかもよくわかるようになっている。『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の食卓なら、母親がスーパーのビニール袋から取りだした長ネギなども見てとれ、晩ご飯のみそ汁はネギだろうな、とつい想像にふけってしまう。

でも、このような食べものは、しばしば不自然なほど画面に映される。たとえば光子郎はマンションでなにかを飲んでいなくたって、ネットのなかに新種デジモンが現れたことを知っただろうし、太一と光子郎が子供部屋でアイスを食べていなくたって、新種デジモンは進化しただろう。あるいはコンビニのお客さんがチョコレートじゃなく雑誌を買っていても、レジの料金表示はおかしくなっただろうし、電気屋にお菓子がなくったって、正ちゃんはヤマトたちを理髪店までバイクに乗せて連れて行ってくれたはずだ。そこに食べものがある理由や、あってもいいような状況はうまく設定されているが、それにしたって食べものが多すぎやしないか。

こんなふうに食いしん坊の目で細田作品を見るていると、面白いことがわかってくる。まだテレビシリーズをふくめ作品数が少ないにもかかわらず、そこには「食べものの物語」なんて言えそうな、作品のストーリーとはちょっとちがった物語が顔を見せるのだ。

02.物語りはじめる食べもの

たとえばテレビシリーズ21話『コロモン東京大激突!』で、ヒカリが、とほうにくれる太一へささやくようにスイカを食べないかと誘うとき、人はスイカの一語に深く感動する。それは思いがけないピンチにおちいった兄を気づかう妹の言葉だからでもあるが、それ以上に、細田作品の「食べものの物語」のひろがりの豊かさに、わたしたちが不意打ちされるからでもある。

『コロモン東京大激突!』は、現実世界にもどってしまった太一を、なんとかデジタルワールドへ返そうとするコロモンと、そのまま現実世界に留まらせようとするヒカリの三角関係を描いている。『デジモンムービーブック』の監督インタビューで語られているとおり、愛人(コロモン)と本妻(ヒカリ)が、どろどろと執念ぶかく太一を奪いあう。

実際に太一がスイカを食べるわけではないこの一語をきっかけにして、ヒカリは恋敵であるコロモンに「お兄ちゃん、もう(デジタルワールドへ)もどらなくていいよね。コロモンもずっとここにいていいよ。ふたりともずっとここにいて」と自分の主張を直接伝える、かなり大胆な女に変貌している。また、そのすぐあと、太一が現実世界に留まりたいと告白したり、コロモンに自分ひとりでデジタルワールドへ返るという決断させるのだから、やっぱり決定的なのはスイカの一語なのだ。

それにしてもなぜ、スイカの一語がわたしたちの心を激しくゆさぶるのか。スイカが「ヒカリ」や「タモリ」と同じ三文字のカタカナだから、ではもちろんなく、食べものが、食べものであること以上の意味を持ちはじめることに、わたしたちが気づかされるからである。画面に映しだされる食べものは、登場人物たちの食事やおやつであると同時に「食べものの物語」となって、作品のストーリーに寄りそいはじめる。

「食べものの物語」は、ストーリーで描かれなかった細部をおぎない、唐突な展開の必然性を支えたりする。そしてまた、ストーリーやキャラクターの心理などを、ある方向にぐいぐいねじ曲げていく役割がそなわっている。まるで作品の海にスイカがぽとんと落とされ、水面に豊かな波紋がひろがりだすようなとき、人は感動をおぼえるのだ。

03.波紋のひろがり

豊かにひろがりだす波紋は、もちろん「食べものの物語」だけのものではないだろう。たとえば子供たち、双子、鏡、時計、電話、シャボン玉やボールや観覧車などの丸いもの、マンション郡やパソコンや飛行機雲のような直線のもの。あるいは見守ること、見下ろすこと、話すこと、呼びかけること、走ること、電灯がチカチカ明滅すること、シンメトリーであること。またはヘリコプターの音、風の音、笛の音、壊れた電話の音、デジタルノイズ、ボレロ。そういった画面に映るあらゆるもの、スピーカーから流れるあらゆる音が、それぞれに波紋を描きだす。

「食べものの物語」の波紋がそうであったように、ほかの波紋たちもストーリーやキャラクターの心理をねじ曲げたりする役割を持っている。ある波紋がストーリーに波を起こせば、ほかの波紋もそれに交わるようにして、作品の水面はなんとも言えない複雑なかたちとなって見る人に迫ってくる。こういう瞬間こそ、細田作品がまさに細田作品らしい姿になるのである。

『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』を見る人は、高らかにボレロの鳴りひびく冒頭に、前作からの波紋が届いていることに気づき、思わず胸が熱くなる。それ以後のストーリーにほとんど関係ない、というか新種デジモンが現れるのはネットの世界だから、マンションが凹のようにならんだ現実世界にデジタマが出現することが矛盾しているようにも思われるシーンにもかからわず、波紋はわたしたちの感性に強く波を打ちつけるのだ。

このような波紋は、細田作品のなかだけでなく、そのほかのあらゆる作品と交わってさらに共鳴を増していくだろう。たとえば画面いっぱいのフライパンや部屋にならぶたくさんの丸い時計は、鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』の画面いっぱいのレコードプレイヤーや日本料亭のテーブルにならぶたくさんの丸いお椀と交わったり、いつもよりよく回る観覧車は、アルフレッド・ヒッチコック『見知らぬ乗客』のいつもよりよく回る回転木馬と交わったり、ツメモンの走る迷路やバーコードの正六角形は、ヴィクトル・エリセ『ミツバチのささやき』のミツバチの巣の正六角形と交わったりする。

とりあえずここでは、それぞれの物語がつくる多くの波紋について詳しく語ることはできないので、食いしん坊の代表として「食べものの物語」について書いてみたい。これが細田作品にどのような波紋をかたちづくるのかを、『デジモンアドベンチャー』の映画二作と、テレビシリーズの21話をもとにさぐりたいと思う。

04.食べものへの関心

上に挙げたとおり、劇場版『デジモンアドベンチャー』にはたくさんの食べものが出てきて、それを前にしたキャラクターはさまざまな行動をとる。監督自身がインタビューで語っているように、第一作は太一とヒカリのデジモンに対する捉え方があるとき逆転するストーリーだが、その捉え方のちがいが食べものによって明らかになっているところにまず注目したい。

冒頭のシーンで、デジモンのタマゴを見た太一が「そのタマゴならでっかい目玉焼きができるな」と言うのにたいして、ヒカリは怒ったように笛を吹く。その後、生まれたばかりのデジモンに食べものをあたえるヒカリに、太一は「しっかし、よく食うなあこいつ。もうねーぞ、プヨスケ」とわずらわしげにつぶやいてみたりする。デジモンの存在を否定的に捉えている太一は食べものに関心を持ち、肯定的に捉えているヒカリは食べものには興味がないそぶりだ。「食べものの物語」では、食べものへの関心ぶりが、ふたりの捉え方のちがいになっているのである。

いまは仮に「肯定」とか「否定」と書いているが、これは白黒のどちらかにパッキリ分かれるものではなく、グレーの状態もあるだろう。太一・ヒカリとデジモンの心の距離が、ひろかったり、ちぢまっていたりすること、そのどちらかに傾いていること、と思っていただきたい。

ストーリーが中盤にさしかかったところで、太一は母親の「ケーキ買ってきたのよ、食べない?」に「うん、あとで」と返事をする。太一の食べものへの関心が薄らいだとき、それに呼応するように、ストーリーに新しい波が立ちはじめ、ピンク色のかわいらしいコロモンが、黄色いおそろしい恐竜の姿にかわる。

恐竜の姿になったコロモンとヒカリが、夜の光が丘を歩きまわっていると、空き缶の音がして、引き寄せられるように缶ジュースの自販機の前にやってくる。そこでコロモンは自販機を破壊し、ヒカリは散らばる缶ジュースを必死に拾おうとする。コロモンが食べもの(飲みものと言うべきか)に関心をしめす理由は、のちの 5.やっかいな状況、ほほ笑ましい状況で語ることになる。このシーンでは、ヒカリが缶ジュースを拾うことの、「食べものの物語」の一貫したひろがりが重要である。

細田作品ではめずらしく、このシーンでヒカリが缶ジュースを拾うための心理的な理由が欠けている。すぐさま朝の食卓で、ヒカリがコップに手をかけながらも飲めなかったシーンを思い起こさせるが、しかし飲むこと/飲めないことの共通点があるだけで、このシーンの心理にあてはめるには、あまりにも作品内の時間が経ちすぎている。子供だからジュースが好き、という理由では、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』でさんざん走った光子郎が烏龍茶を飲むほどの心理的な説得力は持っていないだろう。壊れた自販機を肩で息をしながら発見する太一の方が、よっぽど缶ジュースを拾いそうなものだ。

しかし、心理的な理由がないからこそ、「食べものの物語」が、ストーリーやキャラクターの心理を狂暴にねじ曲げている姿をわたしたちは目の当たりにすることになる。太一とヒカリの缶ジュースを前にした行動は、明らかにそれ以前のふたりの食べものへの関心とは対照的だ。デジモンに対する捉え方が「食べものの物語」を通過することによって、確実に逆転しているのである。

05.やっかいな状況、ほほ笑ましい状況

「食べものの物語」がしめすのは、もちろんふたりのデジモンの捉え方だけでないだろう。猫のミーコのエピソードで明らかなとおり、コロモンが食べものへの関心を全面に圧しだすと、かなりやっかいな状況におちいってしまう。「食べものの物語」は、やっかいな状況を招く役割を演じているのである。

食べものへの関心といえば、ミーコも食事をしていて、やはりそれが原因であるかのように、もりもり食べている最中のエサをヒカリに奪われる。同じように、朝の食卓でコップに手を伸ばしたとたんにヒカリはタマゴを落としてしまうし、「そのタマゴならでっかい目玉焼きができるな」と言う太一は、そのタマゴから生まれた黒いデジモンにいきなり飛びつかれ、目玉を白黒させてしまう。光が丘を歩きまわるコロモンが、自販機を壊したり、レストラン BIG CIEF の前で立ちどまったりするのは、まさにやっかいな状況を招くための「食べものの物語」にほかならない。

しかし、つねにやっかいな状況を招くとはかぎらない。しばしば「食べものの物語」は、ほほ笑ましい状況もいっしょに招きだす。朝の食卓で、ヒカリが大切に抱えていたタマゴを落としてしまうのと同時に、タマゴが割れずに床を転がりだすという、ヒカリにとって、そして見る人にとってもほほ笑ましい状況が生まれるのだ。ヒカリからチョコレートを食べさせてもらう黒いデジモンは、進化したのち、笑顔で排泄行為に及び、ていうかぶっちゃけた話うんこをして、わたしたちの顔をほころばせる。やっかいな状況のあとにうんこ。うんこはとてもほほ笑ましい。

4.食べものへの関心で書いた、「食べものの物語」が太一とヒカリの心理の逆転に投げかける波紋は、このやっかいな状況、またはほほ笑ましい状況を招く波紋へとそのままスライドすることができるだろう。デジモンに対するふたりの捉え方である「肯定/否定」は、「やっかい/ほほ笑ましい」と同じになる。太一にとってやっかいな状況で、ヒカリにとってのほほ笑ましい状況であったストーリーが、あるとき逆転する。そのあるときをかたちづくるのが「食べものの物語」なのである。

06.スイカふたたび

こうした特徴を確かめることができたいま、テレビシリーズ21話『コロモン東京大激突!』の食べものが、食べものであること以上の深みを持って、わたしたちに揺さぶりをかけてくる。現実世界にもどった太一は、自宅に帰って、まずはじめにコーラを飲む。食べものに関心を持つことは、この場合、太一と現実世界の距離がちぢまるという「食べものの物語」である。だからヒカリが、しきりに自分の食べものを太一にすすめる、そのひとつひとつのふるまいが、兄妹という関係を超えて、痛々しいまでの官能性をおびはじめるのだ。

スイカの一語が太一やコロモンをわしづかみにして、ヒカリの望むほほ笑ましい状況が訪れようとする。それは太一にとってはやっかいな状況なのだが、デジタルワールドの仲間のことを「心配したって仕方ないじゃん」と、うつろな目でスイカを見る。そうやって太一と現実世界の距離がほとんどゼロに近くなったとき、一本の電話がそれをふたたび引き離そうと邪魔をするのだ。歪んだ世界のあり方が、太一を宙吊りのくるしい状態に追いこめる。

ところがやがて、街頭テレビの「お台場 夏のグルメスポット特集」が、デジモンたちの引きおこす災害のニュース報道に切り替わる。世界のあり方が、太一に代わって食べものに関心を失うという波紋をまわりにひびかせる。こうなればもう、太一たちをデジタルワールドへもどすべく次元の扉がひらくことに、ご都合主義だの理由がないだのとさわぐ人はいないだろう。ストーリー的な必然は感じられないにしろ、「食べものの物語」ではしっかり唐突さの理由づけがなされているからだ。

すでに書いたように、「食べものの物語」は、食べものへの関心が、存在から存在までの距離をひろげたり、ちぢめたりする。映画版『デジモンアドベンチャー』と『コロモン東京大激突!』は、この食べものへの関心と距離の関係が、正確に逆転しているがゆえに通じあっていると言えるだろう。

映画版『デジモンアドベンチャー』

太一が食べものに関心を持つ

太一とデジモンの距離がひろがる

(太一にとって)やっかいな状況

テレビ『コロモン東京大激突!』
太一が食べものに関心を持つ

太一と現実世界の距離がちぢまる

(太一にとって)やっかいな状況

このふたつの作品にあって、やっかいな状況は、まぎれもなく食べものが意識されることから来ている。問題は、あくまで関心/無関心にある。登場人物(デジモンや世界のあり方もふくめる)が食べものに関心を持つとき、あるいは持たないとき、そこになにごとかが起きるのであり、そのなにごとかがやっかいな状況であったり、ほほ笑ましい状況であったりするというのが、細田作品の特質と呼ぶべきものなのだ。

そのとき、存在たちを結びつける心的な距離がひろがるかちぢまるかは一定していない。だたし、食べものが画面に出てきて、それと意識された後は、人間関係、人間とデジモンの関係、人間と現実世界の関係などが、きまって前とは異質なものとなっているのだ。

07.映画の特徴

ところで、どうしてこのようなストーリーとはちょっとちがう画面の物語が、作品をおもしろくするんだろうか。その理由のひとつは、映画の特徴にあるだろう。

映画を構成する要素のいちばん小さい単位は、ショット(一画面)になる。このショットが次のショットと切れ目なくまっすぐつながれることで、ものが動いたり、ものの感情が動いたり、エピソードとエピソードがくっついたりして、ストーリーがかたちづくられる。この切れ目ないまっすぐぶりは、よく鉄道とくらべられて、なるほどフィルムはレールに似ているだとか、リュミエール兄弟によるはじめての映画が『列車の到着』というのはきわめて象徴的だとか、うんたらかんたら、なのである。

いつでも映画は、この鉄道を思わせる物理的な切れ目のなさ、まっすぐさに縛られていて、とうぜん見る人もそれから自由ではない。簡単に言えば、映画は本みたいに読み飛ばしたり後もどりするようなことはできないのだ。

こうした映画の特徴は、それが観客にあたえる効果に自覚的なつくり手たちによって、大いに利用される。たとえばそれが、いままで書いてきた画面の物語だったりするのだ。切れ目なくまっすぐにストーリーがすすむのにたいして、画面に映るものは、いろいろな方向に波紋をまき散らし、さらに波紋と波紋で交わりあってぐちゃぐちゃしている。そのなかに身を置くことが、映画のおもしろさのひとつである。

以上の特徴をおおざっぱにまとめると、このおもしろさは既視感(既聴感)のためだと言えよう。たとえば『コロモン東京大激突!』で起こるさまざまな出来事は、食べものによって予告されていたことばかりだ。次元の扉がひらいたとき、人は「まさか」と思いつつ、同時に「やっぱり」とも思うだろう。画面の物語で予告されていながら、ストーリー的には唐突なこと、知っていながら知らないこと、そういうどちらとも言えない混乱した状態に、見る人は置かれる。

映画は、切れ目ないまっすぐさを前提とした既視感(既聴感)が、音楽でいうカノンやフーガのように(あるいはボレロのように?)次つぎ組織されていき、見る人を混乱した状態に叩きこむものだ。それを目や耳は敏感に感じとり、おもしろい、と感じさせる。細田作品がよく「映画的」と評されるのは、こうした映画の特徴をうまく活用しているからでもあるだろう。

08.不自然なさりげなさ

『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』で、おばあちゃんがヤマトとタケルにおはぎを届けるシーンに、人はある胸騒ぎをおぼえる。そしてヤマトの「うげー」という顔と、タケルのうれしそうな顔のコントラストに、胸騒ぎはますます高まっていくだろう。

いっぽう、空はうろうろしていて、ミミはジュースそっちのけでハワイを満喫していて、ヒカリはケーキのろうそくを吹き消す邪魔をしている。でも太一と光子郎はアイスや烏龍茶にかこまれている。そこでまた、太一は戦いに夢中で、光子郎は烏龍茶に夢中というコントラストを、既視感とともに見るにつけ、胸騒ぎがどんどん現実化していくさまに人はとまどうことしか許されていない。あとはもう、そこで起こるだろう奇跡と、焼きあがっても食べられないであろうケーキを、ただ見守るほかはないのである。

「食べものの物語」は、登場人物の食欲とか、日々の習慣としての食事とは異質なもので、映画に特徴的な表現だということは、いまみたとおりである。それはストーリーを波立てるための儀式のようなもので、劇場版『デジモンアドベンチャー』のケーキのひと言のように、必ずしも食べものが画面に示されることを必要としていない。

にもかかわらず、『コロモン東京大激突!』と『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の食べものには、それが登場してもいいような必然性がいたるところに用意され、実際にネギであれスイカであれ、くっきりとわたしたちの視界に浮き上がる。前に書いたとおり、やや不自然な印象を受けるのはそのためだ。

儀式としての食べものは、それが朝昼晩のどの食事でもかまわないし、食べものが画面に映されなくても、「画面の物語」として充分に機能する。だからしばしば映画には、箸を口へ運ぶだけの抽象的な食事であったり、酒場やコーヒーショップという場所だけの「食べものの物語」が存在する。

細田作品の「食べものの物語」は、無縁であってかまわない食欲や、習慣としての食事に可能なかぎり歩みよる姿勢を持ち、それが抽象的なのはむしろ例外的ですらある。ストーリーのそこここにある食べものは、不自然なまでのさりげなさをまとって、波紋を辺りに響かせる。いまのところその点が、細田作品の映画的な特質をより鮮明なかたちで示すものと言いうるだろう。

09.細田作品はいかにして死ぬか

「食べものの物語」は、やっかいな状況だったり、ほほ笑ましい状況を招くこともあり、人となにかの距離をひろげたり、ちぢめたりもする。そのとき切れ目ないエピソードどうしの連なりに決定的な変化をもたらすが、その運動の方向はたえず開かれていて、画面をひとつの意味に固定することはないだろう。このような「画面の物語」が美しく、人の心を打つのは、それが自由だからにほかならない。

だからこそ、自由な表現をごくかぎられた意味しか読みとろうとしない態度に、わたしたちは「いかがなものか」と考える。たとえばこのサイトの掲示板の 1320 番に、映画版『デジモンアドベンチャー』に関するこのような書きこみがあった。

構図のことに関していうと、例えば酔っ払ったお父さんが帰宅する所をダイニングテーブルの横から人物の首を切った形で撮るシーンとかは(というかお父さんの顔がでてこない)随分示唆的(ベッドタウン?家父長制の緩やかな崩壊?父子の関係性の希薄さ?)だった。

(強調は引用者がしました)

「?」がくり返されているが、画面の意味を「画面の物語」とも、ストーリーとも関係なく定義しようとしているのは明らかだ。わたしたちは、ストーリー上の、家父長制や父子関係などを描くべき細部の欠落ぶり、希薄さを知っている。ほかにも、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の、大量のメールで動きが止まったディアボロモンの背にある十時線にたいして、

これは確実に死のイメージであり、これでディアボロモンは破滅に向かうということの暗示である。

(引用元は、どうかんやまきかく『詳説?劇場版デジモンアドベンチャー』。同人誌です。強調は引用者がしました)

と言ってみたりすることは、表現の自由な美しさを不自由さで塗り固めてしまっていると言えるだろう。わたしたちは、飛行機雲とピースキーパーの交差が描く十時線を見ているし、すぐさまそれが人類の破滅を暗示しないことを知っている。これらの定義は、作品のことではなく、作品を見た自分の頭のなか、あるいは誰もが想像しうる比ゆを言っているにすぎない

細田作品を自分の頭のなかや比ゆだけを頼りに見ているとしたら、食べものや観覧車などの「画面の物語」は、あってもいいがなくてもよかった細部としか認識されないだろう。「画面の物語」がなくていいのなら、映画の特徴までなかったことにされかねない。そして、それが映画でなくたってかまわないことになってしまう。そのとき、映画は悪意のない視線によって生々しさをはぎとられ、死ぬ。

映画は、細田作品は、それでいいのだろうか。

10.毒食らわば皿まで

ストーリーだけでなく、画面だけでもなく、両方をいっしょに楽しむこと。ストーリーや画面を別々に切りはなしたりして、自分の頭のなかや比ゆなどで勝手に作品を決めつけないこと。あの画面からこの画面へと滑走しつづけ、まちがってもそのひとつを特権化しないこと。たえず波紋が交わりつづける画面に身を置き、その場でおのれの混乱と消失を体験すること。

細田作品を骨までしゃぶりつくすためには、いまのところ、このようなちょっとめんどくさい態度が必要である。しかし、かなりめんどくさいので、多くの人は楽な方へと流れてしまい、細田作品は本来のおいしさを失っていく。そうさせないためにも、わたしたちは細田作品を見つづけなければならないだろう。

おいしそうな細田作品は、わたしたちにどのような「食べものの物語」を描くのか。やっかいな状況か、ほほ笑ましい状況か。作品との距離をひろげるのか、ちぢめるのか。それを決めるのが、わたしたちの作品を見る態度であることは、言うまでもない。

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