どうやったら『人狼』みたいな作品はつくることができるのでしょうか。ここでは主にイメージの連鎖でそれを追ってみたいと思います。
イメージの連鎖とは何か。映画は、豊かな意味を持つイメージがぶつかり合い、意味を連鎖的にかけ合わせていく表現形式です。そのイメージの連鎖からはあらゆる意味を読み取ることができます。それこそ観客の数だけ、無限の意味作用がありえる。
とはいえ、細かい意味まで拾いすぎるととりとめがなくなりますから、ここでは大まかに、ざっくりと書きます。イメージをことばで書く限界を差し引いて読んでいただけるとありがたい。
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『人狼』は赤ずきんの童話をモチーフにしています。赤ずきんは娘がおばあさんに「贈りもの」をするお話です。『人狼』には「贈りもの」をする場面がたくさんあります。
- ゲリラの眼鏡をかけた男が七生に爆弾を贈る
- 七生がゲリラの帽子をかぶった男に爆弾を贈る
- ゲリラの帽子をかぶった男が機動隊めがけて爆弾を投げる(贈る)
- 辺見が伏に捜査資料を贈る
- 圭が伏に赤ずきんの絵本を贈る
- 訓練のおわりに塔部が伏に模擬弾丸を撃ちこむ(贈る)
- 伏の夢のなかで伏が圭にオオカミたちをけしかける(贈る)
- 伏の夢のなかで伏が圭に弾丸を撃ちこむ(贈る)
- 塔部が半田に「圭と辺見の写真」を贈る
- 半田が塔部に「圭と辺見の写真」を返却する(贈る)
- 塔部が伏に「圭と辺見の写真」を贈る
- 伏が圭の肩に上着をかける(贈る)
- 人狼メンバーが伏に強化服を贈る
- 塔部が圭のカバンに発信機をしかけて(贈って)いたことが発覚
- 辺見が伏に弾丸を撃ちこむ(贈る)が失敗
- 伏が辺見に弾丸を撃ちこむ(贈る)
- 塔部が伏にモーゼルを贈る
- 伏が圭に弾丸を撃ちこむ(贈る)
省略しましたが、ドンパチ撃ちあったり、なぐりあったりする場面もふくまれるでしょう。これは人間の広い意味での「コミュニケーション」であり「つながり」ですね。善意であれ悪意であれ。
「コミュニケーション」といえば、この映画のいたるところで登場する「沈黙」と「饒舌」も見逃せません。たとえば「無駄口を叩くな!」というセリフや、「口先ばかりの…」というセリフにもよく表現されてます。弱い犬ほどほえる、という印象でしょうか。
後半に登場する伏と圭の口づけは「沈黙」を強制させるものでもあります。ラストの圭が撃たれる場面では、圭は赤ずきんを朗読して「饒舌」になっていました。もしかしたら圭は、わざわざ「沈黙」をやぶることで、小屋で拳銃をかまえる誰かじゃなくて、ほかならぬ伏に撃ってほしかったのかもしれません。ここで公園で「饒舌」すぎた圭が、滑り台から落ちる場面もいっしょに思い出してみてください。
伏が圭の肩にかけた上着は、二回ほど脱げて落ちます。そして、圭が伏に贈った「赤ずきんの絵本」が水没している場面でこの映画は幕をとじます。それぞれの贈りものは、地に落ちて無用になる運命だったみたいです。
最後の「赤ずきんの絵本」は、伏が圭に弾丸を撃ちこんだ埋立地の水溜りに落ちています。なぜこんな場所まで絵本を持ってきたのか? リアリティから考えればおかしいのですが、そんな愚問をする人はいませんね。なぜならこの映画は「贈りもの」をめぐる物語でもあるのですから。
次は舞台のイメージに注目します。
地下道
├─地上から離れた世界
├─ふだん見えない場所
├─闇
├─水びたし
└─場所と場所をつなぐ
博物館(昼と夜)
├─剥製が展示される場所
├─生きものと剥製
└─剥製はかりそめの姿
橋
├─場所と場所をつなぐ
└─離れた場所はひとつになれない証し
街
├─抜け殻のような夜の街
├─記憶に残っていない取り壊された建物
├─たくさんの人が行き交う繁華街
└─繁華街をつなぐ路地
公園
├─住宅街に囲まれるようにたたずむ公園
├─ブランコ
└─滑り台
デパートの屋上(昼と夜)
├─ネオンと空に近い場所
├─たくさんのアドバルーンが空に浮かぶ
└─転んだ子供が風船を空にはなつ
埋立地
├─建造物がなくゴミが散乱している
├─空が広い
├─水溜り
└─もとは海だった取りつくろわれた場所
こうして整理すると「コミュニケーション」や「つながり」に関係する舞台が多いことに気づきます。また舞台の「つながり」は「しきり」でもあるでしょう。たとえば「生と死の境目」などは「しきり」っぽいです。だいたいは息苦しく、血なまぐさい場所でもありますけど、デパートの屋上だけはそうじゃありません。空が近いからでしょうか。
圭は、橋の上で鳥を見ながら「気持ちよさそう」とつぶやき、「川はどこか知らない海につながっている」と言います。そのあと圭は、夜のデパートの屋上で「このままふたりで、とこか遠いところへ行っちゃおうか」と伏に向かって提案しますし、さらに口づけをかわしたりもします。デパートの屋上のような、空が近い場所では、人間は鳥のようになりたいと願うんでしょうか。
つづいて「しきり」とそれを乗りこえる行為にも注目してみましょう。『人狼』には実にたくさんの「しきり」が登場します。そして「しきり」ごしに捉えるアングルと、「しきり」を乗りこえる場面が多用されます。
地下道
├─門
├─伏と圭は門をこえて地下道に入る
├─マンホール
└─マンホールごしに七生は爆弾を受けとる
路面電車
└─伏はガラスごしに外の風景をながめる
橋
├─石の仕切りと柵
├─圭は石の仕切りのへりに手をすべらせる
└─圭は柵にもたれて鳥をながめる
宿舎
├─塔部はガラスごしに伏をながめる
├─伏は窓を乗り越えて地面に降りる
└─伏は金網と鉄条網を乗り越えて博物館に向かう
伏の夢のなか
├─門
├─門の先に圭がいる
├─オオカミたちが門を越えて圭に襲いかかる
└─伏も門を通りすぎる
博物館
├─門
└─伏は入り口の門ごしに立つ
デパートの屋上(昼と夜)
├─金網
├─圭は金網に指をとおす
├─伏と圭は夜にガラス窓を乗りこえて進入する
└─伏と圭は金網の前で口づけをかわす
ガラスごしの場面は多すぎるので略しました。「門」のイメージは、地下道の門、伏の夢のなかの門、博物館の門で登場して、それぞれつながっています。七生が歩く場面にも門がありました。橋にかかっている手すりも、デパートの屋上とか宿舎の金網にもつながります。
舞台を「空…地上…地下」のみっつにわけたとして、地上と地下を支配しているのが「しきり」になります。空には自由に鳥が飛び、風船がただよいます。デパート屋上のアドバルーンは、地上にくくりつけられた悲しい飛行をつづけるもので、まるで「コミュニケーション」とか「しきり」に縛られた人間のようです。アドバルーンは、鳥になりたいと願う人間のようでもありますし、人間から空へのぶしつけな「贈りもの」のようにも思えます。ビルの上で光るネオンもそうでしょうか。
ほかにも『人狼』の「乗りもの」に注目しましょう。いろいろな種類の「乗りもの」が登場しますけど、ここでは大ざっぱにまとめます。
戦車
├─人を攻撃する
├─人を攻撃から守る
└─上からまわりを見下ろす
ブルドーザー
└─街を壊す
路面電車
├─たくさんの人を乗せて走るもの
├─レールの外には出られない
└─伏と圭はふたりで夜の街を抜ける
バス
├─たくさんの人を乗せて走る
├─レールはない
└─伏はまわりの視線を感じる
車
└─少数の人を乗せて走る
これらの乗りものがどう登場して、どんな意味作用を持つのか注目すると楽しいかもしれません。実にたくさんの意味作用があります。この映画のなかに、人が空を飛ぶ「飛行機」が登場したかどうか、あなたは憶えているでしょうか? じっさいに映画を見て確認してくださいね。
「日中」と「夜」に注目するのも面白いです。この作品は、夜の場面からはじまって、日中になり、夜、日中と進みます。最後は、だんだんと夜になり、そしてだんだんと日が昇るところで幕をとじます。
訓練中に、強化服は急な光をあびると視界が悪くなるらしいとわかります。まるでモグラみたいなやつらですね。この映画は、街中だったり、路面電車のなかの「日中」に生きる人々と、地下道や夜の闇のなかで生きる人狼たちの関係を描いた物語でもあるのでしょう。伏が路面電車のなかで、ふと誰かの視線を感じる場面もついでに思い出してみてください。
だんだんと夜になり、だんだんと日が昇る、この中間の場所というイメージは、「地下道」だったり「博物館」だったり「橋」だったり「埋立地」だったり、いろいろな舞台のイメージにもつながります。この映画のクライマックスは「日中」と「夜」の中間の時間に、「地下道」と「埋立地」の舞台でくり広げられます。
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さて、『人狼マニアックス』という本で、画面の奥に向かって道路が「坂」になっているレイアウトに「これは伏と圭のゆくすえが困難であることを意味している」とコメントしてありました。本が手元にないのでおぼろげな引用ですが、これはどうなんでしょう。
たんなる「坂」というイメージは、山が好きな人にとっては「困難を乗り越えて得られる幸福」も意味するでしょう。思春期の人にとっては「人間的に成長するための道」かもしれませんし、老人は「加齢していく運命にある人間」と思うかもしれません。あるいは「結果より過程がたいせつ」という意味を読みとる人だっているでしょう。
このコメントを書いた人は、一枚のレイアウトの「坂」からどうして「ゆくすえの困難」という意味を読みとったのか? それはあらかじめ作品の内容を知っていたからじゃないですかね。
たしかに、そのレイアウトに描かれた「坂」は「ゆくすえの困難」も意味します。しかし、しかるべきイメージの連鎖があって、結果的にそうなることを忘れてはいけません。この「坂」が「ゆくすえの困難」を意味するまでの長いイメージの連鎖を順を追って説明してみましょう。
まず、伏と圭の出会った場面を思い出す。伏は自爆した七生と圭を見まちがえる。伏と圭がいっしょに歩く場面を思い出す。伏の夢のなかで圭が惨殺される場面も思い出す。そして、塔部の「女でもできたかな?」のセリフを思い出す。昼間のデパートの屋上での伏と圭のやりとりを思い出す。
次に、伏と圭がワーゲンに乗って博物館の敵地を切り抜けた場面を思い出す。ワーゲンは車ですが、同時に「ふたりを乗せて走るもの」であり、また「ふたりの結婚」であり「ふたりが恋人のまま生きていく」という意味にも読みとれます。
次に「坂」の場面より先にある、デパートの屋上で伏と圭が口づけをかわす場面を思い出す。伏と圭にはいろいろな関係があります。ふたりの「口づけ」は「コミュニケーション」であり「愛情表現」であり「沈黙を強制するもの」であり「恋人のちぎり」という意味にも読みとれます。
ここまでのイメージの連鎖だと「坂」は「ゆくすえの困難」ではないでしょうね。むしろ「坂」は「ワーゲン(ふたりの関係)があれば困難だが乗りこえが可能な未来」という意味に読みとれます。
ところが、問題である例の「坂」が描かれる場面で、ふたりはワーゲンを乗り捨てる。これがポイントですね。ワーゲンを乗り捨てたことが、クライマックスに向かう決定的な分けれ道になっています。ようするに、ふたりは結婚や恋人として生きることを拒否した、あるいは拒否させられたのだと読みとれます。
この「坂」が描かれる場面の、さっさと歩き出す伏と、ためらうように歩き出す圭の作画がすばらしい芝居なっています。作画マニアは要チェック。このふたりの芝居が生み出す意味作用は、そのまま夜のデパートの屋上での、ふたりのやりとりにもつながります。
ここにきてようやく、イメージの連鎖は「坂」に「結婚や恋人として生きることを拒否した、拒否させられたふたり」だったり「ゆくすえを困難にさせられた逃亡という状況」という意味を浮かび上がらせます。
映画のたったひとつの「坂」でも、ここまで迂回しないと「ゆくすえの困難」を意味しないんですね。でも、映画はこういう表現なのだから仕方ありません。イメージの連鎖を無視してすっぽかすのは、ムック本のコメントに文字制限があったからといって、許される行為ではないでしょう。同じ絵であっても、映画とイラストのしくみはちがうのですから。
あと、この場面は「坂」を見るだけではなく、「電話ボックス」と「電信柱」と「電線」のイメージもあります。電話ボックスは、たびたび登場する電話のイメージとつながるし、電線は路面電車のイメージにつながり、それらはまとめてコミュニケーションというイメージにもつながります。コミュニケーションは橋という舞台のイメージにもつながる。橋というイメージは贈りもののイメージにつながる。この連鎖は果てしなくつづく。血と、赤と、赤ずきんと、七生の服と、圭のショールと、ジャケットの連鎖も果てしなくつづく。
いちいちくり返しますけど、イメージの連鎖からなにを感じるかは観客の自由です。ほかにもまだ注目すべきイメージの連鎖はいっぱいあるのですが、文章が長くなりすぎるので、このへんでやめておきます。
『人狼』はイメージの連鎖を分析しはじめると、たちまち見取り図がかたちになって面白いですね。いかにこの映画が理屈っぽくつくられているかがわかります。ただ、イメージの連鎖が理に勝ちすぎていて、たとえば『時をかける少女』と同じように奔放さに欠けるといった印象を受ける人もいるかもしれません。もっと意表をつくイメージをはさんでみても楽しめたかも、と私は思いました。
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レイアウトのすばらしさも書いておきましょう。『人狼』のレイアウトがすごいのは、「視線の誘導」と「リアリティ」を両立させているからです。じっさいに、圭が伏が橋の上を歩いて、「赤ずきんの絵本」を贈る一連の場面で、レイアウトを見てみましょう。




このカットはおしゃべりするふたりの顔に視線を集めています。電線とコミュニケーションのイメージがぶつかる場面でもあります。


このカットはあちこちに視線を飛ばすために、そうとうテクニカルなことをやってます。圭のもつ「赤ずきんの絵本」の傾き方にも注目してみてください。うーん、すごい。


これは視線の誘導がわかりやすいですね。水面のきらきらした透過光が泣かせます。ずばり「恋のめばえ」と思う人もいるでしょうし、「女性の神秘的な魅力」と思う人もいるでしょう。古典的ですけど、萌えアニメに足らないのは、このささやかで絶大な光です。


このカットもテクニカルです。この画像のあとに、圭は手すりにもたれかかりますが、その芝居にもあわせて視線の誘導を行っています。行き交う車とか、橋のなだらかな傾斜にも注目してみてください。
小さい画像で見づらいですけど、ここも電線がうまく張りめぐらせてあります。ふたりの距離感がたまりません。圭が実にいい表情をしています。
アニメのレイアウトは、よく「リアリティがある」と褒められます。でも、単なるリアリティなら、写真を使えばかんたんなんですよね。新海誠監督『ほしのこえ』の写真レイアウトを思い出してください。ただ、写真のような現実にある風景だと、うまく見せたい部分にものを配置できません。だから実写映画ではあの手この手を使って視線を誘導していますし、誘導しないでも楽しめるように工夫されています。その点で「視線の誘導」はアニメでやりやすい表現方法と言えるでしょう。
絵を描く人なら「視線の誘導」と「リアリティ」を両立させるのがどんなにむずかしいことか、おわかりになるはず。あちらを立てればこちらが立たず……双方ににじり寄っていくしかないですから、地味にたいへんなのです。『人狼』は1300カット近いすべてのレイアウトで、こんなことをやってるんですね。絶句します。
『人狼』は「視線の誘導」と「リアリティ」に加えて、ここでえんえん書いてきた「イメージの連鎖」も行っています。こんなふうな見方をして、もう一度『人狼』を楽しんでみてはいかがでしょうか?