ドラえもん のび太の道具問題

映画ドラえもんの歴史をひとことで言えば「いかに道具を使わせないか」である。

未来の道具は便利すぎるために、あらゆるピンチや逆境が成り立たない。たとえば、たいていの物理的な障害は、どこでもドアとビッグライトで解決してしまう。どこでもドアの便利さは言うまでもないだろう。またビッグライトは、たとえば強敵と戦うときは巨大化すれば戦力が上がってすぐに勝てる。遠くまで歩くなら巨大化した方が歩幅が大きくなる。空中でタケコプターが壊れて落下しそうなら巨大化して落下そのものを無化してしまえば良いのだ。

しかし、これでは映画として必要な物語が効果的に描けないという困ったことになる。これを仮に「道具問題」と名づけることにする。

そこで映画ドラえもんの制作者たちは、いろいろな対策をとった。そのうちの大きな対策は、ドラえもんを大馬鹿者にすることだった。映画のドラえもんは、なにかと言えばすぐパニックにおちいって四次元ポケットから道具やごみをぽいぽい投げたり、道具のことやその効果を一時的に忘れていたり、また初対面の人に向かっていきなり「ぼくドラえもんです」と自己紹介する、大馬鹿者である。しかし、こうでもしないと子供たちから「あの道具を使えばいいのに」というツッコミが入れ放題になってしまうのだから仕方ない。「未来の道具」で堕落するのは、のび太ばかりでなく、ドラえもんも、物語も同じなのである。

その点で『ドラえもん のび太の魔界大冒険』(原作および旧作映画のこと)は、設定が練りこまれていた。この作品の世界では、タケコプターがなくとも、ほうきがあれば「魔法」で飛ぶことができる。ひらりマントがなくとも、敵のはなつ炎は「魔法」で避けることができる。つまり「魔法」があたり前の世界では「未来の道具」もまたあたり前のものになるわけで、この世界での日常とほぼ同じレベルで描けるわけだ。「道具問題」の構造的な無理に、しかるべき配慮がなされた。同時に、「魔法」と「未来の道具」の比較をとおして物語る工夫もあった。この作品ほど「道具問題」をうまくさばき切った作品はほかにないだろう。名作とほまれ高いことにも素直に納得できる。

さて、ここ最近のリメイク映画から、集中線のイメージ背景のなか道具のアップが映る、おなじみの「道具BANK」が極端に少なくなった。これは、もはや「道具問題」は、子供たちに「なるべく道具に注目しないでね」とお願いする段階まで深刻化したのだと言えるだろう。

逆に考えれば「道具問題」はつくり手たちの腕の見せどころでもある。

たとえば、冒頭でドラえもんが誘拐されて、のび太たちが道具なしで敵に立ち向かう物語にすれば良い。こんなときにあの道具があれば楽なのにな、と思うたびに、未来の道具におんぶに抱っこだった甘えを自覚する。加えて、ドラえもんという存在のあり方を再認識して、友情と信頼を確かめ合う、という流れにするなど。ほかにも、のび太が、一人前になるためにドラえもんに頼らない、道具を出さないでくれとお願いする、なんて段取りもありだろう。のび太のお願いにより、ドラえもんは道具を使いたくても使えない「心理的なしばり」が生まれる。それぞれ原作の『さようなら、ドラえもん』で示された方法論の亜流である。

リメイク路線がつづくならば、根本的な「道具問題」の対策はむずかしい。そこで、『ドラミちゃん アララ・少年山賊団』である。原恵一監督は当事者同士で解決するべきことと、こころの問題では道具を使わないという独自のルールをもうけることで、問題の土俵から遠ざかった。これは主人公がかしこいドラミであることも大きいが、ドラえもんを大馬鹿者にしないのなら方法論は変わらない。『ドラミちゃん アララ・少年山賊団』はいま見直されるべき作品ではないかと思う。

映画のび太の結婚前夜/ザ・ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?/ドラミちゃん アララ・少年山賊団

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