『赤毛のアン』――刈入れどきを待つごとく

高畑勲監督のテレビアニメーション『赤毛のアン』は、広い意味での「変化」を描いている。その「変化」は肉体的・精神的な成長、人間関係、心情、生活習慣、四季のうつろい、誕生と死、などである。それらは「ゆるやかな変化」と「劇的な変化」に大きくわかれる。そもそも原作がそういうつくりをしているため、演出にはその「変化」をアニメーションとしてどのように描くか、定着させるか、という問いがまずあっただろう。

たとえば主人公アンのキャラクターデザインは実に細かく設定されていて、話数が進むごとに少しずつ背が伸び、骨格がかわる。アンの肉体的な成長、つまり「変化」は第37話の「十五歳の春」で完成する。平行して「不変」も描いている。なぜなら「変化」はなにかとの対比で認識されるものだからだ。アンの肉体的な成長を裏づけているのは、なによりマリラやマシュウの思い出のなかの幼いアンである。思い出の「不変」によって「変化」が強調されることになる。

このほかにもたくさんの「変化」が描かれている。たとえば、アンが家に来る前の生活が思い出せなくなったと言うマリラとマシュウ。たとえば、怪我をしたため抱きかかえられているアンの姿におどろき、年がいもなく駆けよるマリラ。たとえば、アンの格好に思いをめぐらせる流行にうといはずのマシュウ。たとえば、アンがクイーン学院に入学して家を去り、急にさびしくなった切妻の部屋、などなど。

このような「変化」のうち「ゆるやかな変化」は、長尺のテレビシリーズでないと描けないつくりになっている。また「不変」の変わらなさ、確かさ、安定感なども長尺でないと描けないつくりになっている。それをはじめから構造的に仕組んでいるのだろう。そして、もろもろの「変化」と「不変」をしっかり描いたあとだからこそ、第47話「死と呼ばれる刈入れ人」の演出が際立つ。マシュウの「不変」の愛情、「不変」の働きぶり、「不変」の習慣、それらの「不変」があればこそ、死という「劇的な変化」が効果的に描かれ、アンの涙として昇華される。

第47話はとくに際立っているが、第37話以降の演出的な充実ぶりはすごい。さながら、じっくり育ててきた種子がみごとに実をむすび、刈入れどきを迎えたかのようだ。二時間足らずの映画では絶対に成しえない、テレビシリーズならではの境地、達成がここにある。

好敵手ギルバートによせるアンの思いひとつとっても、膨大な時間をかけて描かれる。ゆっくり描いたからこそ、また、ささいな出来事の積み重ねで描いたからこそ、最終話「神は天にいまし すべて世は事もなし」のエピソードがきちんと昇華される。まさに種子をまき、刈入れどきを待つような演出スタイルだと言えるだろう。

この作品の描写は基本的に、多角的な視点で描かれる。さまざまな種子を植えるためには、主人公の視点だけを追っているわけにはいかないからだ。だから場合によっては端役の視点で描いたり、第三者的な視点で描いたりする。また、見る人によってさまざまな解釈がありえるようなつくりにわざわざしている。たとえばキャラクターに感情移入したければできるし、しなくてもいいようにもなっている。ある出来事にたいしてさまざまな意見を取り入れて、判断するのは見る人にまかせている。言うまでもなく、これは単純な「客観的な視点」ではない。このような多角的な視点でとらえること、あるいは多重構造とも言える演出は、高畑勲作品の特徴である。

高畑勲作品には常に、セル・アニメーションとはどういう表現なのかという問いかけがある。絵、そして動画の表現とは「分解」であり「再構築」であり「再現」であり「感覚による変奏」であり「抽出されたもの」である。だから実写で同じような芝居、カット割りを行ったとしても、アニメーションとはまったくちがった時間、空間が生まれる。高畑勲作品では、そのようなアニメーション的な時間、空間は、ただそれだけで魅力になりうるという確信が貫かれている。

分解され、抽出され、つくり手の感覚によって再構築された時空間は、実写よりも異質で、濃密なものになりえる。この作品では残念なことに、とびきりの異質さ、濃密さが得られていないところもあるが、しかし、この確信があるからこそ、第10話「アン、心の友と遊ぶ」のような、大きな出来事のない淡々としたお話をつくることができるのだろう。

そもそもアニメーションは、絵が絵であって同時に絵でなくなる表現である。ただの絵が、同時にその場所の風景であり、また、生きて血の通った存在として受け止められる瞬間の「エロス」こそが、アニメーションの魅力になる。この作品はその「エロス」をたんねんに描いていく。基調としての作画のリアリズムは、そのための手段のひとつである。

もちろん動く絵としてのアニメーションの魅力、たとえば奇抜だったり、現実性のない、重力を無視した描写も、おもにアンの空想の出来事などでは行われる。私は『おもひでぽろぽろ』の空をすいすい泳ぐ場面にも通じると思った。

しつこいくらいにくり返される日常描写は「エロス」を生み出す。たとえば、グリーンゲイブルズの家の間取りとか、まわりの風景、ダイアナの家までの道筋と距離感など、わたしは見ているうちにすっかり暗記してしまった。見る人が暗記するくらいしつこく描くことで、ようやくグリーンゲイブルズの風景画は、ただの絵ではなく、血の通ったものになる。だから馬車が遠くから近くに走ってくるような地味な描写でも、充分に魅力的で楽しめる。

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