ぼくらは少年演出家
三中信宏『系統樹思考の世界』を読む
三中信宏『系統樹思考の世界』を読みました。理系・文系の壁を超えた共通言語としての系統樹思考のあれこれを書いた本です。おもしろかった。
このところ読んでいる進化学の本をまとめるつもりで読んだんですが、それ以外の『内科医からみた動物たち』、『幽霊を捕まえようとした科学者たち』、『捏造された聖書』ともつながってしまう射程の広い内容におどろきました。これはすごいなあ。読むのにだいぶ時間がかかりましたよ。やや射程を広げすぎたせいでまとまりが悪く感じますが、こんなのはぜいたくな批判でしょうね。
グローバルな科学にはいくつかの基準があります。
1.観察可能であること
2.実験可能であること
3.反復可能であること
4.予測可能であること
5.一般化可能であること
しかし、たとえば進化学は、観察も実験も反復もできません。人類の二足歩行の理由を調べたくてもアウストラロピテクスからやり直そうってわけにはいかない。そこで、こういうローカルな科学に合った科学哲学が考えられます。「演繹」とも「帰納」ともちがう「アブダクション」です。
アブダクションはかんたんに言うと、最良の説明を発見する推論方法(チャールズ・S・パーク)。
理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する――アブダクション、すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは、幅広い領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。
アン・ギボンズ『最初のヒト』の「イースト・サイド・ストーリー」という仮説とそれをくつがえす発見、あるいは分子時計がらみの話などは、まさにアブダクションですね。『捏造された聖書』のオリジナルテキスト復元のためにいくつかの写本グループにわけてくらべて調べることもアブダクションに入るでしょう。『考古学の教室』や『「古代史」謎解きのヒント』のように与えられたわずかな遺物をもとに過去を推測しあい、それをくらべあうこともアブダクションです。
アブダクションは、思考実験であり、物語的説明であり、トークン(集合のなかの個別をあつかうもの)なので、やや説得力に欠けます。しかし天文学や進化学から明らかなように、仮説をデータで検証する体系があって、「より良い説明」を磨き上げていけるならば、アブダクションからでも普遍法則を研究することはできると語ります。
さらに、言語・写本・民族・文化・遺物など、それぞれで時間的にも空間的にも超えた共通点が比較法(系統樹)によって明らかになれば、いずれは言語の樹や写本の樹や民族の樹をひとつにまとめた「生命の樹」(the Tree of Life)をかたちづくることも夢物語ではなくなる。そう著者は語ります。いよいよ話が大きくなってきました。
けっこう盛りだくさんですが、ここまでが前半の内容です。後半からは系統樹の歴史、あれこれの作法、その利点などがトリヴィアルなネタといっしょにこってり書かれています。それは本書でお読みください。
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以下、気になったところを拾っていきます。
早田文蔵さんに関しては、著者は誤解をしているかもしれません。早田さんは森羅万象のかたちづくる網状ネットワークを踏まえた動的な自然分類を目指した。その理論のヒントを華厳経の教義から得たそうです。
ある科学理論のひらめきを与えるのは、必ずしもデータであるとは限らず、場合によっては偶然の賜物だったり、時として宗教的啓示だったりします。早田の場合も天台宗の教義が「科学する心の支え」になっていたのかもしれません。
早田さんが論文にくり返し天台宗(とくに華厳経)の教理に言及したことから、よほど心に刻み込まれた宗教的体験があったのかもしれないと著者は考えています。しかし、そもそも華厳経の教えが動的かつネットワーク的です。異質なものが集まっていて、あちこちにつながりながら、全体として調和がとれている、そういう「ホロニック・ネットワーク」が華厳のキモでしょう。
早田さんにはもしかしたら宗教的体験があったのかもしれませんが、華厳理論を知るだけでも充分にヒントを得られたはずです。天台宗の教義は「科学する心の支え」どころか、科学よりずっと先を行った理論があったわけですから。もちろん宗教的な直観とイメージで世界を捉えたものですが。
それに、華厳理論を応用した早田文蔵さんよりとんでもない巨人が日本宗教界にいます。空海は華厳理論を応用して『秘密曼荼羅十住心論』を書き上げ、日本に渡来した数多くの仏教の宗派をならべて、くらべて、つなげた系統樹思考の達人でしょう。もっと評価されてしかるべき、というか、この本に書かれてないのがふしぎなくらいだと思います。
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分類主義者や本質主義者との対立があったことがほのめかされてますが、もっと突っこんで書いてほしかった。どろどろした科学者たちの論争があったはずです。きっと、この本がことさら系統樹の大切さを説く背景には、いままで軽んじられてきた歴史があるんじゃないかと思います。
それに「種(species)はない」と「新しい形而上学」の話は、かなりぐっときたんですが、ほとんど説明されません。人はそもそも認知的に分類したがる分類主義者で、それに加えて、なんらかの本質があると思いこんでしまう本質主義者である、というのがキーなんでしょうけど、いまいちピンときません。もっと詳しく書いたものが読みたい。
系統樹をつくるときの最短距離とかアルゴリズムとか離散数学とNP完全問題のあたりは、もっとへヴィーな数学をあつかわなければいけないはずですが、ここも説明があっさりしすぎです。新書だから仕方ないかもしれませんが、これで理解&実践できる人は、よっぽどの才人じゃないかと……。
まあ、深みにはまりたいなら参考文献を読め、ってことかもしれません。
あとがきのスペシャル・サンクスで、執筆に利用した喫茶店がずらずらならべてあるのは笑いました。こんなのはじめて読みましたよ。
アン・ギボンズ『最初のヒト』を読む
アン・ギボンズ『最初のヒト』を読みました。ジャワ原人からトゥーマイまでの発掘と、化石ハンターたちの姿をせきららに描いた本です。たいへんおもしろかった。
この本は、時代ごとに立てられるさまざまな仮説と、それがくつがえされる様子がていねいに描かれ、化石人類の研究史をなぞっていきます。また、化石ハンターたちが、どういう時代背景のなか、どんなことを考えながら、どこで、どんなふうに化石を見つけたのかがじっくり描かれ、化石ハンターの個人史と発掘史をなぞっていきます。
イブ・コパンの仮説に「イースト・サイド・ストーリー」があります。ざっくりまとめると:
気候の変化で東アフリカの森林が減り、それまで木登りの生活をしていた類人猿は草原で二足歩行の生活をはじめ、人類へと進化した。西アフリカの森林にとどまった類人猿はチンパンジーへと進化した。東西の気候と環境が、人類とチンパンジーの進化をわける原因だった。
実にもっともらしい仮説ですが、その後の発掘によってくつがえされていきます。
- 中央アフリカで化石が見つかった。
- アルディピテクス・ラミダス、オロリン・ツゲネンシス、アルディピテクス・カダバの化石は、森林で生活する動物の化石といっしょに見つかった。
- サヘラントロプス・チャデンシスはモザイク状の土地に生きていたらしく、いろいろな動物の化石といっしょに見つかった。
- 東アフリカで動物相をわけるほど森林が減る時期はもっと最近のことだと修正された。
- 最新の情報では、東アフリカでチンパンジーの化石が見つかった(西に行ったわけじゃなかった)。
別の本から仕入れた情報もありますが、だいたいこんな感じで仮説「イースト・サイド・ストーリー」はボコボコにやっつけられます。ごぞんじロバート・ワイズ監督の『ウエスト・サイド物語』をもとネタにした名前は良かったんですけどね。
これとは逆に、ゴリラやチンパンジーがたくさんいるからアフリカが人類進化の舞台だったんじゃないかなーというダーウィンのゆるゆるの仮説はどんどん実証されていっちゃうんです。皮肉な運命がスリリングで楽しい。
化石ハンターのなかでは、とくにマーティン・ピクフォードの暴れっぷりがすごかった。この人はめちゃくちゃだ。
ピクフォードは、ケニアの発掘をリーキー家に独占されていることに反発して『リチャード・E・リーキー――策謀の大家』という本を書きます。
まず本は、「リチャード・リーキーの途方もない不正の犠牲者へ」という献辞の扉で始まる。本文では、リーキーは「寄生虫」、その学問は「アホ」、彼の著作は「誤りの山」、その友人は「おべっか使い」と書かれていた。
こどものケンカかよ!
アンドリュー・ヒルの指揮するイェール大学隊だけが調査の許可をもっていたため、ピクフォードは許可の取り消されるが、それを告げる手紙を「偽造文章だ!」と受け取らず、無視して調査をつづけた。
そしてピクフォードは化石オロリン・ツゲネンシスを発掘する。でも、化石のデータを公表しなかった。ティム・ホワイトが「公表しろ」と迫ると、ピクフォードは「まず、お前が十年間も隠し持ってる化石アルディピテクス・ラミダスのデータを公表しやがれ!」と反論する。
読んでいて胸やけがしそうなほど、どろどろした人間関係です。
ただ、これは化石をめぐるシステムの問題でもあったようです。化石の発掘には、富と名声がかかっていて、研究資金をたくさんもらうためにも、ほかの学者に先を越されるのはまずかった。見つけた化石のデータを公表せずに隠しているほど自分が有利になるわけです。こんな対立を生むシステムじゃ、どろどろしない方がおかしい。
第2部8章の冒頭にすばらしい引用があったので、再引用して終わります。
本当の発見の旅は、新しい景色を探し求めることにではなく、新しい目を持つことにある。
――マルセル・プルースト
フランセス・アッシュクロフト『人間はどこまで耐えられるのか』を読む(2/2)
(つづき)
てっきり『人間はどこまで耐えられるのか』という題名だから、人間のことだけを書いた本だと思ってました。第5章から先はちょっと毛色が変わって、生理学の教授が持ちネタをぶちこんだ感じになってます。
第5章は走りの科学とドーピングについて。
筋肉の収縮を科学的に分析したり、ドーピングがもたらす副作用を分泌物から説明したり、運動能力を遺伝子から読み取ったり、理系テキストに不慣れなわたしはくらくらしました。
いまのオリンピックは商業主義にふり回されて、ドーピングが大変なことになってます。古代のオリンピックでは、勝者には栄光のみがあたえられ、ほとんど賞品はなかった。まさに理想的な競技会……と思いきや、敵に金を払って負けてもらう「買収」は行われていたとのこと。まあ、人間ってこんなもんですよね。
第6章は宇宙と人について。ここはかなり面白かった。人が宇宙空間に無防備で飛び出すと、あっという間に「消えて」しまうらしいです。
肺の空気がすべて噴き出て、血液や体液に溶けていたガスが気化し、細胞がばらばらになる。血管の中は気泡だらけになって、脳に酸素が運ばれなくなる。体内の器官に含まれていたガスが膨張し、消化管が破裂して鼓膜がさけて、あまりの寒さに体が凍りつく。すべては一瞬のことで、十五秒と経たないうちに意識を失うだろう。
人が地球を離れる宇宙時代になったら、こんな安楽死もありかもしれません。そういえばガンダムで宇宙空間に無防備で飛び出したキャラクターがいましたね。ふつうに乳繰りあっていたような……。
液体がすぐに気化する宇宙空間ならではの名言:
宇宙で最も美しい光景は何かと質問されて、アポロのある乗組員は、「船から捨てた尿の雲が、太陽に輝いていたこと」と答えた。
星雲に、キラキラ光る、しっこ雲。つい一句詠んでしまうほど感動しました。宇宙時代になったら、こういう恋人へのプレゼントもありかもしれません。ふと出崎統監督の「輝くゲロ」を思い出しました。
宇宙船のなかでは人体にいろいろな影響があるそうです。代表的なところでは、1.身長が伸びる、2.骨や筋肉が委縮する、3.赤血球が減る、4.感染症にかかりやすくなる。1~3までは重力のある地上に慣れた人体のことを考えれば想像できますが4の感染症はふしぎです。
その原因のひとつは、人の皮膚から汗で流れでる細菌。無重力の船内にぷかぷか浮かんでいる細菌をふくんだ汚い空気を吸うと感染症かかってしまう。アポロ計画のときにようやく原因に気づき、念入りに殺菌することで感染症を減らしたものの、まだ完璧とは言えない。
つい最近、ハウス食品が開発した宇宙食のカレーは、そこらへんの宇宙病を考えた栄養バランスとのことです。通販できるみたいなので食べてみようと思います。
第7章は極地で生きる微生物について。
だいたいの生きものは暑さ寒さに弱いうえに、酸素がないと生きられません。ところが微生物のなかには暑さ寒さが好きだったり、強い酸のなかでも、死海などの強い塩のなかでも、宇宙空間でも平気で生きているやつがいる。おどろくべきことに酸素を嫌う、嫌気性微生物だっている。
嫌気性微生物にとっては、酸素がほとんどない生まれたばかりの地球はパラダイスだったことでしょう。ところが進化したシアノバクテリアが光合成をはじめ、地球が現在と同じくらいの酸素濃度になってしまい、嫌気性微生物はあえなく絶滅する。
ああ、これを「環境破壊」と呼ばずしてなんと呼ぼう! 目に見える動植物ばっかり心配する映画『アース』のスタッフに猛省をうながしたい。(なかば冗談ですよ、念のため)
フランセス・アッシュクロフト『人間はどこまで耐えられるのか』を読む(1/2)
フランセス・アッシュクロフト『人間はどこまで耐えられるのか』を読みました。オックスフォード大学の教授が生きものの限界について書いた本です。アデノシンの構造式が登場するなど、ごりごりの理系テキストにへこたれそうになりましたが、とてもおもしろかった。
もくじ
第1章 どのくらい高く登れるのか
第2章 どのくらい深く潜れるのか
第3章 どのくらいの暑さに耐えられるのか
第4章 どのくらいの寒さに耐えられるのか
第5章 どのくらい速く走れるのか
第6章 宇宙では生きていけるのか
第7章 生命はどこまで耐えられるのか
人間が耐えられる「限界の数値」を見てもとくに感動はしないんですよ。高度八千メートル、水深七二メートル(フリーダイビング)、高温五十度、低温マイナス二十度前後。ふーんってくらいです。
わたしはむしろ高さの限界を知らずに気球で空を目指したチャレンジャーや、深さの限界を知らずに川に潜って橋柱をつくっていた労働者たちの姿にぐっときますね。限界を前にした人びとの営みに興味がある。
高山病を知らない時代は、山は神々の聖地だと信じられていて、誰もが近づかなかった。潜水病を知らない時代は「あれ、なんか体調が変だぞ」くらいで無茶な潜水服を着てはたらいていた。日射病を知らない時代は、太陽の化学線が脊髄に影響をおよぼして脳にダメージをあたえると信じられていて、帽子に鉄板やアスファルトをしこんでヘルメットよろしく被っていた。
人間が耐えられる限界を科学者は自分や家族を実験台にして調べていたそうです。J・B・S・ホールデーンは四歳のころから父ジョン・スコット・ホールデーンの実験台として活躍して、みずからも科学者になり、また実験台になって何度も死にかけた。父は高さの限界と高山病を調べ、子は深さの限界と潜水病を調べた。なんという親子でしょうか。
パイプをくわえてほほ笑むJ・B・S・ホールデーンは『ゴッド・ファーザー』に登場していても違和感のないマフィア顔なのに、かずかずの実験台や調査だけではなく、遺伝形質の変化を数学的に実証したりもしてます。いまスキューバダイビングを楽しめるのは、このマフィア顔のおかげらしいですよ。
冬将軍にやられ、モスクワから撤退したナポレオン軍は、馬を解体して食べていたそうです。馬を殺すと凍ってしまうので、生きたまま脚を切り落して食べる。
立って歩いている馬の脚から肉を切り取ったが、悲惨な馬は少しも痛い素振りなど見せなかった。あまりの寒さで感覚が麻痺していたのだ。(略)血は瞬間に凍りつき、流れ落ちない。両方の太ももから大きく肉をえぐり取られたまま、数日間歩いている哀れな馬もいた。
凄惨な現場ですが、寒さが麻酔と止血に効果的だとわかり、いまでは手術や出産でふつうに行われています。ありがとう、かわいそうな馬よ。
troubleclefとロバート・ワイズは怖ろしい
世界的に(?)有名なtroubleclefさんによる「My Favorite Things」を紹介します。
http://jp.youtube.com/watch?v=vLOPlMlSnXo
この曲は映画『サウンド・オブ・ミュージック』に使われていたもので、聴いていると京都に行きたくなる呪いがかけられています。ちょっと映像は悪いですが、アレンジといい解釈といい絶品。
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同居人がオーストラリアに留学していたころ、ホスト・ファミリーの母が、テレビで放送する『サウンド・オブ・ミュージック』を楽しみにしていたそうです。いっぽう若い子供たちは、あんなの一回見れば充分、それより『スター・ウォーズ』が見たい、と語っていたとのこと。きっとロバート・ワイズ監督の怖ろしさを知らないんでしょう。
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ロバート・ワイズ監督の映画『たたり』は、まだCGがなかったころに、あの手この手の技術を使って恐怖を演出しています。Discovery Channelの番組で見たんですが、最後に霊がドアを押す場面は、ドアを薄いたわむ板でつくって、セットのうしろから合図とともに角材で押したんだそうです。ロバート・ワイズ監督は「はは、単純だろ?」と語る。うーん、怖ろしい。
「正体のわからないものがいちばん怖い――それが私の信条なんだ」
「目に見える相手なら何とかなる。でも見えないものや聞こえないものに対して、人は無力だ」
同じ番組内でのワイズ語録です。
黒沢清監督は著書『映画はおそろしい』のなかで、もし『たたり』に1カットでも幽霊が登場すれば『回転』を抜いたかもしれない、と書いています。その点が「実に惜しい」と。しかし、ロバート・ワイズ監督は、上に引用した信条にしたがって幽霊を登場させなかったんでしょう。
近況とブログのまとめづくり
- 2008-02-04 (月)
- 雑記
じわじわ忙しくなってきました。いまは、くるぶしまで浸かっている状態ですが、これが腰まで来るとからだごともっていかれるので、その前になんとか手を打たねばなりません。
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このブログは、はじめたのは去年からですが、すでに730件を超える記事があるみたいです。ここらへんで「人気エントリー」とか「まとめエントリー」をつくった方がいいかもしれません。もう自分でも読み直すのが面倒。
佐伯チズ『頼るな化粧品!』を読む
- 2008-02-03 (日)
- 雑記
佐伯チズ『頼るな化粧品!』を読みました。キャリア40年にわたる達人が「常識」をくつがえす美容理論を語るという内容です。わたしは化粧をしたことがないで、わからないところを同居人にたずねつつ読みました。
第一章で化粧品メーカーの裏事情とそれにふり回される消費者をあばいてから、つづく第二章で美容の「常識」はまちがいだらけと指摘して、それに代わる新しい美容理論を第三章で語り、最後の第四章で美は内面や暮らしに宿るとまとめる。そんな構成です。
読んでいるうちに「フランス式」と「アメリカ式」の美容のちがいが浮かび上がってきました。
フランス式は、西洋の美だけでなくアジアン・ビューティーをふくむ「美の相対化」をもとに、医学をよりどころにした長期的な効果をもとめ、自分に合った化粧を楽しむ。アメリカ式は、ロールモデルへのあこがれとイメージをもとに、マーケティングをよりどころにした短期的な効果をもとめ、ニーズに近づくための化粧を楽しむ。
大ざっぱな分け方ですが、こんな感じでしょうか。別のことばで言えば「個性化」と「均質化」あるいは「ケア」と「演出」。
著者はフランス化粧品メーカーのゲランに入社して、マダム・リゴプロに美容のいろはを学んだらしく、どちらかと言えばフランス式。日本人の肌質や美意識に合ったメイクを提案し、ケアの大切さを説いていきます。はっきりした主張を断定的に語り、美容に思想・ライフスタイルをからめることが特徴的だと思いました。「信者」になるか、ならないかの二者択一を迫るタイプかもしれません。
愛されメイクなどのキャッチコピー、化粧品の流行、お店の美容部員におどらされて、自分に合わない化粧品を使っていませんか? という問いかけは普遍的な力がありますね。高価なものが必ずしも良いものではない、高価だから効くはずという心理をついた商売だ、という指摘も同じ。こちらはオーディオの世界とそっくりです。
一貫して語られるのは「肌はデリケート」ということ。クレンジングと石鹸の「ダブル洗顔」は、肌がもともと持っている機能を削ぎ落とす。ごしごしこすったり、パッティングはNG。顔剃りは角質を奪うだけでなく肌が自己防衛で硬くなる。などなど。
おもしろかったのは「木を隠すなら森」理論ですね。シミやシワを隠そうとして、明るめの白っぽいファンデーションを使ったり、コンシーラーを使うのはむしろ逆効果。あくまでブラウン・ベース。オークル系やピンク系のアクセントを加えるていどで、シミやシワは同じ濃い色で隠すのが正解と語ります。つまり「木を隠すなら森」。単純明快で冷静な指南は『五輪書』のごとし。
洋服と同じように化粧にも「衣替え」があるという話も興味深かった。毎日まいにち、自分に似合う得意なメイクをする人が多いそうです。外にいる日、室内の蛍光灯の下にいる日、体温の上がる夏、体温の下がる冬で、明るい色と落ち着いた色を使いわけるそうです。メイクの前に、まずその日のシミュレーションを。化粧をしないわたしでも「なるほど!」とうなりました。
著者は美容と健康のためにミネラルウォーターを飲み、カルシウムを摂取するそうです。わたしも毎日2リットルの水と1リットルの牛乳を飲みます。美容をまるで気にしないつや消し人生ですけど、これが美容法なんだとわかると、ちょっとうれしい。あと、坊主頭は自分でバリカンを使って刈るので「顔剃り」もしばらくやってませんが……。「ダブル洗顔」どころかクレンジングを使ったことすらありませんが……。
最終章の「美は内面や暮らしに宿る」という結論は、安野モヨコ『美人画報』や『美輪明宏のおしゃれ大図鑑』と同じでした。いい感じの落としどころはほかに選択肢がないんでしょうね。
身なりに頓着しない恋人と田舎で近所づきあいをせず自給自足の生活をすれば一般的な美の価値観は無になる、という遁世系の落としどころはいかがでしょうか。あるいは、異性の欲望にふり回されないためにも美の価値観や文化を変えなくてはならない、民衆よ立ち上がれ、シュプレヒコール、なんてのは。ぜんぜんちがう本になっちゃいますけども。
映画『アース』を見る
映画『アース』を見ました。北極から南極まで旅をするように大自然をながめて「地球のことを考えてみませんか」と提案する内容です。
「よくこんな映像が撮れたなあ」とか「どうやってこんな映像を撮ったんだ?」のオンパレードです。いや、撮り方そのものは想像できるんですが、手間のかかりすぎるカットの多いこと多いこと。また、それを目的意識のはっきりした的確な編集でつないでいきます。
系統でいうと『ガイア・シンフォニー』や『WATARIDORI』につらなる映画でありながら、ついでに『ザッツ・エンタテインメント』っぽいところもあります。20秒に一回は水木しげる漫画の登場人物のように「ふはっ!」となること請けあい。
森を俯瞰でとらる構図で、木々に葉がつき、花が咲いて、やがて枯れ、雪で覆われ、また葉がつき……季節はめぐっていく、というカットがありました。これが定点観測だったら撮影法はわかりやすいでしょう。カメラを固定して撮影しつづければOK。でも、この映画は定点ではなく移動、パンやドリー撮影をしています。つまり、年間とおして少しずつカメラを動かして撮影したり、何年もくり返し同じカメラワークで撮影した映像をつないでいるわけです。言うはやすし、ですが、そんな映像を見てしまうとやっぱり圧倒されますね。手間かけすぎ。眼福。
北極グマやアフリカ象など、いろいろな動物が登場します。いつものことなんですが、わたしはネコ科の肩から指先までのつるっとしたフォルムにやられました。アムールヒョウの一歩ごとに肩が盛り上がる歩きがたまりません。雪原を気配を殺しながらそろりそろりと歩くオオヤマネコにうっとり。チーターの狩りの超高速撮影では、しなやかな筋肉の流れ、躍動感にこころを奪われました。ああ、生まれ変わるならネコ科の動物になりたい。
映画館の不備なのか、デジタル撮影の弱点だったのかわかりませんが、ピントがやや甘いのが残念でした。こども料金500円はとてもすばらしいと思いますが(まんが映画もみんな500円にしてしまえ)、狩りの場面で血が描かれなかったり、獲物を食む様子が隠されているところは、すれっからしのおっさんにはちょいと物足りなかったです。
太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』を読む
- 2008-02-01 (金)
- 書籍
太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』を読みました。さばさばした性格の字幕屋さんがおかしな日本語をつついたり仕事のあれこれを愚痴ったりという内容。おもしろかった。
わたしはクレジットをよく見ないせいで字幕屋のことを知らないのですが、太田直子さんは勝手に「ソクーロフの人」と憶えてました。なんとなく、お堅いイメージ。ところがこの本を読んで、リズム感のいい愉快な文体にいい意味で裏切られました。
テクニックを凝らした軽い文体なので、著者とおしゃべりするような感じですいすい読めますが、深いところまで届く内容のうえに、昭和天皇や禁止用語のタブーなどにもきわどく触れています。最初の勝手なイメージは裏切られましたが、期待は裏切られませんでした。
一秒四文字の制限でことばを切り詰める作業をやってみよう、という字幕テストがおもしろかった。たとえば、むっつり黙りこむ女に、男が問いかける場面:
男「どうしたんだ」
女「あなたが私を落ち込ませてるのよ」
男「僕が君に何かしたか」
このみっつのセリフをすべて五文字以内に切り詰めるには、どうすればいいのか? ポイントはふたつ目の15文字で、この内容をひとつ目に盛りこむことまでは想像できるものの、そこから先は悩みどころ。けっこう頭の体操になります。著者がじっさいどんな字幕にしたのかは、本書でごらんください。
字幕屋ならではのおかしな日本語つつきも楽しい。下のような発言はチャレンジブルです。まったくそのとおりだなあ、なんて思いつつも。
広報などで、かたくなに「障がい者」と表記する自治体や組織もある。「害」の字はネガティブな意味合いを持つからだと言う。だったら「障」の字もそうではないのか。
ほんらい映画は映像で伝えるものだから観客に「わからせる」ためのナレーションを多用するな(字幕屋の仕事が増えるじゃないか!)という指摘は、珍しい方向からの援護射撃みたいに感じましたね。つくる側もわかっちゃいるけど商売のことを考えると仕方ないなーなんて、字幕屋と同じようにうんざりしていると思います。
「泣ける」映画が流行っているせいで配給会社の人に無理やり「泣ける」創作字幕を書かされるあたりも笑いながら読みました。こういう作品名をすぐに特定できそうな愚痴は読んでいて心配になりますが、愚痴ってもOKなキャラと実力が認められているんだろうと勝手に思いました。本業の字幕はもちろん、太田直子さんのもっと単著が読みたいです。
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』を読む
- 2008-01-31 (木)
- 書籍
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』を読みました。タイトルどおり兵士の心理についての内容です。あちこちで絶賛される本だけあって、すこぶるおもしろかった。
2%の殺人嗜好者を除いて、多くの人は人を殺せない。古戦場から回収された銃のほとんどは弾が残ったままだった。撃つとしても空をねらうか、わざと標的から外れた場所をねらうか、命中率の低い長距離をねらってしまう。銃剣は切るものではなく刺すものだと教わっているのに、無意識に銃床(肩当て)のほうでぶんなぐってしまう。
歴戦の兵士や指揮官や兵法家が証言するように、何百年も前から兵士は敵を殺すことを拒否してきた。兵士は人殺しにまつわる罪悪感、嫌悪感、抵抗感から逃げてきたのだった。この本はその事実を具体的な証拠・証言から明らかにしていく。
映画で描かれる戦争や殺人をよく知っているだけにかなりおどろきました。兵士がみんな「ザ・もやしっ子」だったら話はわかりますよ。でも、じっさいはマッチョでタフな男女がうじゃうじゃいたわけでしょう。そんな人たちでも人を殺すのを避けていた。なんだか、これから映画を見る目が変わってしまいそうです。
兵士たちの発言が妙に生々しくて怖いです。戦場のトラウマとストレスの要因はいろいろあるんですが、自分を殺そうとしている者の憎悪にあてられることがあると言います。
ベトナム時代のあるパイロットが語ってくれたところでは、まわりの非対人的な高射砲はさして気にならなかったが、いちど敵の兵士がたったひとりで「自分の小屋のそばにさりげなく立って、こっちに慎重にねらいをつけている」のに気づいたときのショックはいまでも忘れられないという。個々の敵の兵士を識別できたことはめったになかったので、彼がすぐに感じたのは「おれがいったい何をしたっていうんだ」という心外な気持だった。
この「おれがいったい何をしたっていうんだ」はすごい。戦争をしているのに。このパイロットだって敵を銃でねらうことはあるだろうに。おそらく顔の見える個人から強烈な敵愾心を向けられると、そういう気持ちがわいてしまうものなんでしょう。やけに生々しく感じてしまいます。
戦場のトラウマとストレスによって兵士が精神的にまいってしまうことが多いらしいです。主な症状は、疲労、錯乱、転換ヒステリー、不安、妄想および強迫状態、人格障害。また標的との「物理的な距離」が近いほど殺人の抵抗感は大きくなり、トラウマも大きくなるとのこと。長距離のミサイルが最小で、近距離の素手が最大です。
だけど「人は人を殺せない、だから戦争をやめよう」で済まさないのがアメリカのすごいところ。なんと「人殺し」の心理学を調べつくして、最強の殺人マシーンをつくる訓練法を確立します。だいたい『フルメタル・ジャケット』で描かれていたとおりの訓練法ですね。わたしなりにまとめると:
1.権威者の命令
権威を認められた指揮官は自信をもって命令をくだし、兵士は絶対に服従する。兵士が発砲を決意する最大の理由は「撃てと命令されるから」である。
2.集団免責
命をあずける戦友とのきずなは厳しい訓練をともにくぐり抜けることで生まれる。戦友とのきずなは夫婦より強く、その責任感は兵士に殺人の抵抗感を乗り越えさせる。また、集団による匿名化で殺人の抵抗感を減らすことができる。
3.敵との心理的距離
特定の階層を人間以下と見なしたり、敵の人間性を否定する習慣をつづけることで殺人の抵抗感を減らすことができる。これを「脱感作」という。ハートマン軍曹のセリフによく表れている。
「俺は厳しいが公平だ/人種差別は許さん/黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん/すべて――平等に価値がない」
「逃げるやつはベトコンだ! 逃げないやつは訓練されたベトコンだ!」
4.条件づけ
銃の装填や伝統的な射撃術を反復することで、たとえ意識がもうろうとした状態でも反射的かつ瞬間的に撃つ態勢に入れるようにする。
『フルメタル・ジャケット』の射撃訓練では白くて丸い的を撃ってましたが、じっさいはリアルな人型を撃っていたそうです。ケチャップをつめたキャベツを撃って、血がとばっと飛び出ることに慣れる訓練もくり返しくり返し反復して「条件づけ」する。
こうした殺人をリアルに再現したリハーサルのおかげで、人間を撃ったときでもリハーサルだと思いこむことができる。フォークランド帰還兵は「敵は第二型(人型)標的としか思えなかった」と語ります。
『時計じかけのオレンジ』式の訓練も行われたそうです。恐怖の度合いが増していく映像を特殊な器具でまぶたを閉じられないようにされ頭を固定された状態で見つづけ、恐怖心を克服すると報酬が与えられる(映画とは逆)というもの。これも「脱感作」のひとつ。いやはや、キューブリック監督が大活躍ですね。
ぞぞっとしたのは、暗視ゴーグルを使った夜間の戦闘。ストレスが大きい近い距離だけど敵はぼんやり緑色に浮かぶだけなので殺人の抵抗感がほとんどないんだそうです。まるでゲーム感覚。この本の後半では、ゲームやホラー映画は知らないうちに殺人マシーンの訓練をしていることになるぞ、と警鐘を鳴らします。
日本の有名な殺人集団である新撰組はどうだったんだろうと読みながら思いました。新撰組のみんなが2%の殺人嗜好者だったとは考えにくい。それに近距離から日本刀での殺人だから、最大級のトラウマとストレスがのしかかっていたはず。けっこうな人が精神的にまいっていたんじゃないかと思います。
尊王攘夷の過激派を主に取り締まった、殺したので、「敵との心理的距離」は保たれていたと言えます。たとえば「あいつらは日本を滅ぼす、われわれの行動は正しい」と頭から信じることができれば殺人の抵抗感は減らせる。しかし考え方がちがうだけの同じ日本人だから、人種間にまたがる戦争や殺人――たとえばユダヤ人虐殺――とは異なるでしょう。
もしかすると新撰組は加藤泰監督の傑作映画『幕末惨酷物語』みたいだったのかもしれません。
文庫で500ページ超えの分厚い本なんですが、内容や引用にくり返しが多くて「あれ、これ読んだぞ」と思っているうちにさくっと読み終わってました。雑誌連載をまとめたものなのか? それとも元軍人ならではのくり返しによる「条件づけ」文章法なのか?















