胸元がV字に大きく開いているトレーナーを着ていたら、同居人から「おい、セワシ君」と呼ばれた。先日は「おい、ダメ太郎」、さらに前には「おい、おまる」と呼ばれた。もちろんすべてに返事をした。
わたしを呼んでいるとわかれば、どんな名前で呼ばれても返事をすることにしている。しかし、たとえば「おい、大鶴義丹」のような中途半端にウケをねらったようなものには絶対に返事をしない。もし緊急の用事であっても、絶対に、である。
この差はわずかだが、そのゆずれない一線にこそ、わたしがあるのではないかと思っている。
胸元がV字に大きく開いているトレーナーを着ていたら、同居人から「おい、セワシ君」と呼ばれた。先日は「おい、ダメ太郎」、さらに前には「おい、おまる」と呼ばれた。もちろんすべてに返事をした。
わたしを呼んでいるとわかれば、どんな名前で呼ばれても返事をすることにしている。しかし、たとえば「おい、大鶴義丹」のような中途半端にウケをねらったようなものには絶対に返事をしない。もし緊急の用事であっても、絶対に、である。
この差はわずかだが、そのゆずれない一線にこそ、わたしがあるのではないかと思っている。
翻訳研究者・翻訳家の大久保ゆうさんが、フランク・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!』に日本語字幕をつけてフリー公開しております。すばらしいこころみですし、またすばらしい映画なので、ぜひご覧ください。
ゴールデン・ウィークの最終日は同居人といっしょに上野動物園へ行ってきた。
この日は暖かかったこともあって、ゴリラや虎などは日陰でぐったりしていた。カバはずっと水のなかに入ったままで、たまに鼻を出して呼吸をするぐらいだった。動物園というと、だいたいこのようなものだというイメージがある。人気のありそうな動物にかぎって映像で見る印象からはほど遠い姿をしている。
うってかわって鳥類はみんな元気だった。ハチドリ師匠は客の前で見事なホバリングをかまし、ツル師匠はつばさを広げ、ハシビロコウ師匠は沈黙を守り、カラス師匠はせっせとエサを盗むなど、サービス精神にあふれていた。

パンダの場所にはたくさんの花束と似顔絵が飾ってあった。これからパンダはどうなるのか、日中関係ともども注目していきたい。

以前の日記を書いたときに、Wikipediaのツチブタ画像にめろめろになった。上野動物園にもツチブタがいるとわかり、じっくり見てきた。

ツチブタは夜行性なので、エサの時間にならないかぎり、まず姿を現さない。エサの時間になると係員がケージの中央にエサ箱を置き、ツチブタを連れてくる。客はケージの前にたくさん集まってきて、写真を撮ったり、口々に「かわいい」とほめたたえあっていた。人気があるようでうれしかった。
ツチブタのケージだけ地面がぼこぼこに掘り返されていて驚いた。きっと暗くなったら大暴れしているんだろう。ういやつだ。

もし自分が、万引き・痴漢・下着泥棒をつかまえて表彰されるとしたら、どんなコメントを言ったらいいだろう。私は日々そんなことを考える馬鹿者である。
知恵熱が出るほどけんめいに考えたおかげで、ひとつアイデアが浮かんだ。
「私が○○○をしに行ったところ、先にやっているふとどき者を見つけた。けしからんと思い、つかまえた」
この○○○には万引き・痴漢・下着泥棒が入る。我ながらすばらしいアイデアだし、マルクス主義者の私にふさわしいコメントだろう。
これで表彰される準備は整った。あとはつかまえるだけである。そのためにも○○○をしに行こうと思う。
いっとき花粉症っぽくなって心配していたが、いまはシーズンになってもまったく症状が出ない。たぶん勘ちがいだったんだろう。たまにひどい症状に苦しむ知人から「どうしてお前は花粉症にならないのか」と恨みごとを言われる。そういうときは、
「あまり息をしてませんから」
と答えるようにしている。
ふと思いついたブリティッシュ・ジョーク(?)。
「ジョージ・マーティンは”4人目のビートルズ”と呼ばれている」
「もともとビートルズは4人組だ。リンゴ・スターに失礼だぞ!」
Wikipediaの「5人目のビートルズ(日本語)」では候補が6人ほどだが、「Fifth Beatle(英語)」ではつくり話もふくめて候補がうじゃうじゃ挙げられていて、ちょっと笑った。
おそらく故郷のリバプールには数千人単位の”5人目のビートルズ”がいるんだろう。貧乏なときに食事をおごったFifth Beatle、あの曲は俺の鼻歌だったと言いはるFifth Beatle、などなど……。
今月19日にTBS RADIOのライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフルを聴きました。ゲストは細田守監督。ポッドキャストで配信されているので、聴き逃した方はこちらから。
すでにどうかんやまきかくの楽屋裏: ウィークエンド・シャッフルで書いていただきましたが、細田守さんの語ったアニメの表現論はわたしが前に書いたものとよく似ていて、うれしかった。
かんたんに要約すると「生きてる感じ・もっともらしさ」がアニメ表現の面白さで、同じように正反対の「生きてない感じ・記号性」も面白さになる、ということです。ほかにも、アニメは現実をそのまま映すのではなく、手でアウトプットされたものだから面白い、という内容は以下で書きました。
このうち該当する部分だけを抜き出してみます:
絵、そして動画の表現とは「分解」であり「再構築」であり「再現」であり「感覚による変奏」であり「抽出されたもの」であろう。だから実写で同じような芝居、カット割りを行ったとしても、アニメーションとはまったくちがった時間、空間が生まれる。(略)分解され、抽出され、つくり手の感覚によって再構築された時空間は、実写よりも異質で、濃密なものになりえる。
そもそもアニメーションは、絵が絵であって同時に絵でなくなる表現である。ただの絵が、同時にその場所の風景であり、また、生きて血の通った存在として受け止められる瞬間の「エロス」こそが、アニメーションの魅力になる。
細田守さんは「動き」を中心に語っていましたが、わたしは背景美術のような止め絵でも、やり方によってはアニメ的な面白さを感じることができるだろうと考えています。
こういうアニメの表現論は、まとまって書かれたものを読んだことはありませんが、私のオリジナルではないでしょう。認知科学の本あたりで、誰かがきちんと書いてないかなーとぼんやり期待してます。たとえば認知科学の重鎮で、ご自身もチャーミングな佐伯胖さんは「コビト論」で、こんなことを書いていました。
人は「分身」を世界に派遣する
わたしはいくつもの「わたし」に分かれて、世の中のありとあらゆる世界(モノ、ヒト、コト)に潜入し、その、分身としての「わたし」(コビト)が対象世界の制約の中でかぎりなく「活動」し、「体験」し、そのような、あらゆるコビトの多様な「体験」が統合されたとき、わたしは世界を「納得」する。
「学問と人間」─ヒトがヒトを知るとは─学術俯瞰講義(3)
あらゆるモノ・ヒト・コトに自分を重ね合わせて、共感したのちに理解・納得する、というものです。これはアニメのキャラクターに「生きてるみたい!」とか「死んでるみたい!」と感じることに関係していると思います。ジャック・ラカンの「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」も思い出します。
アニメを見るときのリテラシーについて、また、奇形的な表現についても書きたいことがありますが、長文になりそうなので、機会があったらまた。
まとまった記事が書けないのでTwitterをはじめました。短い一言は随時更新中。いっとき手持ち100カットを超えていましたが、だいぶ減りました。もう一息。