ぼくらは少年演出家
汝、もし戦わば
- 2008-04-30 (水)
- 小話
もし自分が、万引き・痴漢・下着泥棒をつかまえて表彰されるとしたら、どんなコメントを言ったらいいだろう。私は日々そんなことを考える馬鹿者である。
知恵熱が出るほどけんめいに考えたおかげで、ひとつアイデアが浮かんだ。
「私が○○○をしに行ったところ、先にやっているふとどき者を見つけた。けしからんと思い、つかまえた」
この○○○には万引き・痴漢・下着泥棒が入る。我ながらすばらしいアイデアだし、マルクス主義者の私にふさわしいコメントだろう。
これで表彰される準備は整った。あとはつかまえるだけである。そのためにも○○○をしに行こうと思う。
花粉症対策
- 2008-04-23 (水)
- 小話
いっとき花粉症っぽくなって心配していたが、いまはシーズンになってもまったく症状が出ない。たぶん勘ちがいだったんだろう。たまにひどい症状に苦しむ知人から「どうしてお前は花粉症にならないのか」と恨みごとを言われる。そういうときは、
「あまり息をしてませんから」
と答えるようにしている。
n人目のビートルズ
ふと思いついたブリティッシュ・ジョーク(?)。
「ジョージ・マーティンは”4人目のビートルズ”と呼ばれている」
「もともとビートルズは4人組だ。リンゴ・スターに失礼だぞ!」
Wikipediaの「5人目のビートルズ(日本語)」では候補が6人ほどだが、「Fifth Beatle(英語)」ではつくり話もふくめて候補がうじゃうじゃ挙げられていて、ちょっと笑った。
おそらく故郷のリバプールには数千人単位の”5人目のビートルズ”がいるんだろう。貧乏なときに食事をおごったFifth Beatle、あの曲は俺の鼻歌だったと言いはるFifth Beatle、などなど……。
ウィークエンド・シャッフル(ゲスト・細田守)を聴いて、アニメの表現論をふり返る
今月19日にTBS RADIOのライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフルを聴きました。ゲストは細田守監督。ポッドキャストで配信されているので、聴き逃した方はこちらから。
すでにどうかんやまきかくの楽屋裏: ウィークエンド・シャッフルで書いていただきましたが、細田守さんの語ったアニメの表現論はわたしが前に書いたものとよく似ていて、うれしかった。
かんたんに要約すると「生きてる感じ・もっともらしさ」がアニメ表現の面白さで、同じように正反対の「生きてない感じ・記号性」も面白さになる、ということです。ほかにも、アニメは現実をそのまま映すのではなく、手でアウトプットされたものだから面白い、という内容は以下で書きました。
このうち該当する部分だけを抜き出してみます:
絵、そして動画の表現とは「分解」であり「再構築」であり「再現」であり「感覚による変奏」であり「抽出されたもの」であろう。だから実写で同じような芝居、カット割りを行ったとしても、アニメーションとはまったくちがった時間、空間が生まれる。(略)分解され、抽出され、つくり手の感覚によって再構築された時空間は、実写よりも異質で、濃密なものになりえる。
そもそもアニメーションは、絵が絵であって同時に絵でなくなる表現である。ただの絵が、同時にその場所の風景であり、また、生きて血の通った存在として受け止められる瞬間の「エロス」こそが、アニメーションの魅力になる。
細田守さんは「動き」を中心に語っていましたが、わたしは背景美術のような止め絵でも、やり方によってはアニメ的な面白さを感じることができるだろうと考えています。
こういうアニメの表現論は、まとまって書かれたものを読んだことはありませんが、私のオリジナルではないでしょう。認知科学の本あたりで、誰かがきちんと書いてないかなーとぼんやり期待してます。たとえば認知科学の重鎮で、ご自身もチャーミングな佐伯胖さんは「コビト論」で、こんなことを書いていました。
人は「分身」を世界に派遣する
わたしはいくつもの「わたし」に分かれて、世の中のありとあらゆる世界(モノ、ヒト、コト)に潜入し、その、分身としての「わたし」(コビト)が対象世界の制約の中でかぎりなく「活動」し、「体験」し、そのような、あらゆるコビトの多様な「体験」が統合されたとき、わたしは世界を「納得」する。
「学問と人間」─ヒトがヒトを知るとは─学術俯瞰講義(3)
あらゆるモノ・ヒト・コトに自分を重ね合わせて、共感したのちに理解・納得する、というものです。これはアニメのキャラクターに「生きてるみたい!」とか「死んでるみたい!」と感じることに関係していると思います。ジャック・ラカンの「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」も思い出します。
アニメを見るときのリテラシーについて、また、奇形的な表現についても書きたいことがありますが、長文になりそうなので、機会があったらまた。
Twitter、はじめました。
- 2008-03-06 (木)
- 雑記
まとまった記事が書けないのでTwitterをはじめました。短い一言は随時更新中。いっとき手持ち100カットを超えていましたが、だいぶ減りました。もう一息。
中井久夫『徴候・記憶・外傷』を読む
- 2008-03-04 (火)
- 書籍
中井久夫『徴候・記憶・外傷』を読みました。PTSDや精神医学のあれこれを書いた本です。
やっぱり中井久夫さんはおもしろい。南方熊楠と『ドグラ・マグラ』の正木敬之を足して2で割ったような人だと思います。軽くチャカポコしてる感じがたまりません。手に入る著作はすべて読むことに決定。
三歳までの記憶は、断片的で、視覚的で、非言語的な「幼児型記憶」。成人になってからの記憶は、歴史があって、文脈的で、言語的で、変化する「成人型記憶」。成人になるにつれて成人型記憶が前に出てきて、幼児型記憶が消えていくんじゃないかという仮説が立てられます。
私は、二歳半から三歳半のクリティカルな時期において幼児型記憶が消去されるという仮説を立てる。この消去が必要なのは、文脈依存的な成人文法性、三者関係、自己史連続感覚の成立のために邪魔になり、両立しないからであると考える。
これは脳神経系の情報処理システムの発達をべつのことばで説明したような感じだと思いました。
ざっくり脳神経系の発達を書きます。まず子宮で細胞分裂によってニューロンがつくられ、樹上突起などがかたちになり、無差別にあちこちと回路をむすぶ。生まれたあとの環境刺激で必要のないニューロンは消え、無差別だった回路が整理されて、学習や加齢とともに変化・発達していく。そのうち視神経と視覚野は生まれて数ヶ月で成熟するが、聴覚野は三歳半ごろにようやく成熟する。
中井さんは自分の記憶や、臨床の経験、小説・随筆・詩などから、おおむね直感をたよりに仮説を立てています。学問的な基礎体力があるとはいえ、なんという直観力でしょうか。科学がまだ届いてない領域までも見通しているんじゃないか……なんて思ってしまいますね。
この本では「幼児型記憶」と「外傷性記憶」が似ていることから、PTSDと治療の話になだれこんでいきます。似たテーマをくり返し書いているので理解もしやすいですし、ほかの著作と同じようにいちいちたとえ話や具体例が興味深かった。
もっとちゃんとした書評が書きたいところですが、いまは時間がないので、とり急ぎ。この本はジャケットもかっこいいです(下に)。おすすめ。
アニメスタイルで読みたい記事
- 2008-02-28 (木)
- アニメ
アニメスタイルの次回のイベントは、「雑誌アニメスタイル3号企画会議」だ!そうです。わたしはたぶんイベントに参加できないので、ここでアニメスタイルで読みたい記事をみっつ挙げます。
1.小黒祐一郎さんのテレコム作画の話
漫画批評家の夏目房之介さんもそうですが、やっぱり自分が熱くなって楽しんだ時代の作品を語ったほうが、記事はがぜんおもしろくなります。だから小黒さんにも熱く楽しんだ時代の作品の話、たとえばテレコム作画の話を語ってもらいたいです。個々のアニメーターの話から、特定のカットの話をこってりと。
思いつくままに、だらだら語るようなものが読みたいですね。小黒さんがお気に入りらしい、関弘美さんの『この人に話を聞きたい』みたいな感じで。要点をてぎわよくまとめるライター文体じゃ楽しさ半減です。評論っぽいものもNG。
2.小川びいさんの声優論
あえて「論」にしましたが、これも、よもやま話が読みたいところです。声は文章にするのがむずかしいですけど、そこをなんとか。声優キャスティングにおける声のトータルバランスについても、きちんと言語化してまとめるのはむずかしそうですが、そこをなんとか。個人的によかったと思う作品のタイトルを挙げるとか、ゲストを呼んで語りあってほしい。
3.絵コンテ講座
雑誌「アニメスタイル」は良くも悪くも作画マニアを量産しました。次なるステージは演出マニアを量産することでしょう。インタビューじゃなくて、突っこんだ技術論がいい。
たとえば大地丙太郎さんがブログでやっている絵コンテ講座を、もっとたくさんの演出家でやってみたらおもしろいんじゃないかと。短い脚本をひとつ用意して、何人かの演出家にコンテを切ってもらい、読みくらべてみたり。
絵コンテ講座をやって、演出の技術論が大ざっぱにでも広がり、楽しみ方がわかれば、『時をかける少女 絵コンテ 細田守』や『デジモンアドベンチャー絵コンテ・細田守―ANIMESTYLE ARCHIVE』の売りあげはもっとよくなるんじゃないかと思います。読まれ方の質も変わるでしょう。たぶん、絵コンテに慣れていない一般の人で、最初から最後まで読みとおした人は少ないはず。これじゃあまりにもったいない。
以上、アニメスタイルで読みたい記事みっつでした。まとめます。
- 小黒祐一郎さんのテレコム作画の話
- 小川びいさんの声優論
- 絵コンテ講座
アニメはもっとおもしろくなる
- 2008-02-27 (水)
- アニメ
アニメがつまらないと思ったら、どんどんブログに書こう。
アニメがおもしろいと思ったら、どんどんブログに書こう。
誰にでもわかることばを使って、ちゃんとした文章で書こう。
できたらその考えをまとめよう。
同じ議論をくり返さないために。
あとから来た人たちが踏み台にできるように。
その考えが知的で、しかも活発に行われていたら、きっと注目される。
みんなの考えは、アニメをつくる人にも、つくらせる人にも影響をあたえる。
アニメを変えるのは視聴者だ。つくる人じゃない。
夢見がちな人だと思われるかもしれないね。
でも、ぼくはひとりじゃないんだ。
いつかあなたも仲間になってほしいな。
そうすれば世界はひとつに……じゃなかった。
アニメはもっとおもしろくなる。
アニメにおける「縦の構図」と「垣間見」の精神を批判的に検討する
人さまの記事をネタに語るという、ブログっぽいことをやってみます。
tukinohaの絶対ブログ領域
アニメにおける「縦の構図」と「垣間見」の精神
要約すると、映像作品の「縦の構図」は奥行きを強調するので、見られる対象の前に遮蔽物などがあったりする。すると観客が「かいま見る/のぞき見る」ようになり、見られる対象の価値を高めたり、真実味をあたえる効果がある。……という内容だと読み取りました。
わたしが誤読している可能性は大いにありますが、おもしろい記事だと思ったので、批判的に検討してみます。
この記事のなかでも縦の構図とは言えない例を挙げてしまっていますが、ほかにも監視カメラっぽいフレーミングでも似たような効果を望めるでしょう。あるいは「かいま見るAさんの姿を正面から捉えた構図」→「Aさんの見た目で、BさんCさんがならんでいる横の構図」とカットをつないだとしたら、横の構図でもたいして変わらなくなります。
なぜ縦の構図にこだわるのか理由がわかりませんし、映像を語るうえでカットの連続性を無視するのはまずいでしょう。
そもそもフレーミングに意味はあるのか? という問題も考える必要があります。『フィルム・アート―映画芸術入門』から引用してみます。
わたしたちはときとして,アングルや距離などのフレーミングの性質に,絶対的な意味を与えたくなることがある。(略)映画技法の性質にそのような一対一対応の厳格な意味があるなら,芸術としての映画の分析はずっと簡単であろうが,それによって,個々の映画作品の独自性や豊かさはおおかた失われてしまうだろう。実際,フレーミングには,絶対的な意味や一般的な意味はない。
(P253)
フレーミングの機能はその作品のコンテクストによって決まります。つまり「かいま見る/のぞき見る」構図の機能(どういう意味をもつか/もたせたいか)は、作品のコンテクストによっていろいろ変わってしまうわけです。[補足:その作品のフレーミング機能がほかの作品に当てはまらない場合もある。もっと言えば、その作品のほかの場面に当てはまらない場合だってある。]
ただし『鶴の恩返し』のような物語類型でいうところの「見るなのタブー」は世界中にあるので、「かいま見る/のぞき見る」ことに対象の価値を高めたり、真実味を感じたりするような文化的背景は広く共通しているかもしれません。したがって、以下のようにまとめることはできそうです。
- 世界中に「見るなのタブー」の物語類型がある(文化的背景)
- われわれは「かいま見る」ことで対象の価値や真実味を感じるらしい(仮説)
- この心理は映像表現でも利用することができるだろう(仮説)
- 『CLANNAD』『ef – a tale of memories.』『true tears』の該当する部分(具体例)
- 「かいま見る」フレーミングでは「縦の構図」などがある(結論)
ここでは映像をつくる側の方法論を語っているので、意味の解釈は見る人にゆだねられ多義的であるという見る側の方法論は省きます。
この「縦の構図」は何も映画やアニメといった映像作品に限ったものではなく、日本の芸術全般において用いられてきました。例えば、古い日本庭園において「借景」と呼ばれているものがこれに当たります。
無理やり範囲を広げてまで「縦の構図」にこだわったのは、もしかしたら借景の話につなげたかったからかな? と邪推。
批判的に検討というか、要約してまとめた感じになってますね、はい。







