きのう会社の人から聞いた、ちょっと怖い話。
前に住んでいた家は、ふしぎなことがいろいろと起った。
ある日の夜中、居間でくつろいでいるときにインターフォンが鳴った。友達かと思って玄関を開けたが、なぜか外には誰もいない。居間にもどったところでまたインターフォンが鳴った。玄関を開けたが人っ子ひとりいない。
奇妙に感じながらも、玄関を閉めてうしろを向いた瞬間、またインターフォンが鳴り、間髪入れずに玄関を開ける……が、やはり誰もいなかった。
これは小話としてよくできてるな、と思いましたね。なんといっても後半のスピード感が良い。実体験として話してもらったんですが、この絶妙なまとめ方に感心します。お次は、にちゃんねるの恐い話スレッドにあった名作で、わたしの方で文体を整えました。
風邪をひいたらしく寒気がするので、東京の大久保にある病院へ向かった。頭がぐわんぐわんと痛み、西武新宿線のつり革にしがみつくようにして、目を閉じて必死に耐えていた……そこで記憶が途絶える。
気づいたら夕暮れどき、見知らぬ場所に立っていた。いままで買ったことのない服を着ていて、髪は染めたこともなかったのに茶髪。パニックになり、近くのラーメン屋に駆けこんで場所を尋ねたら、大阪市の福島駅の近くだった。しかも一年ほど時間が経っている。ケータイは機種が変わっていて、アドレス帳には「ま」とか「ひ」みたいな一文字の名前の登録が10個ほどあっただけで、知人や家族の番号はなかった。わたしはなぜか、その知らない電話番号が怖ろしくなって、ケータイを川に投げ捨てた。
警察から実家に連絡したら、家族もびっくりしていた。捜索願を出していたらしい。その後、東京の実家にもどり、もとの会社にはクビになっていたので、いまは派遣の仕事をやっている。いまでも月一で精神病院に通っている。
これも小話として完成度が高い。たとえばケータイに登録されていた名前がわかりやすい本名だったり、そのケータイが手元に残っていたら、失われた空白の時間をかんたんに調べられてしまうので、話の面白みがガクッと下がる。「だったら調べりゃいいじゃん」というツッコミを避ける物語の作法をこころえた小話です。わたしが手を加える前のもともとの文体は、かなりラフなおしゃべり調でした。この作者は「ぶっきらぼうな話者」がかもし出すリアリティの効能をよくわかっている人でしょうね。まあ、それにしても、明日にでも自分の身に降りかかるともわからない不条理が、ちょっと怖い。
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(追記)ふたつ目の話はもともとの文体がとても良いので、リライトしなきゃ良かったと反省してます。いちおうオリジナルも転載しておきますね。
風邪ひいてて寒気がするので、大久保にある病院に行くため西武新宿線のつり革につかまってた。
で、あたまがぐわんぐわんと痛くて、目を閉じて眉間にしわ寄せて耐えてた。
そこで記憶が途絶えて、気がついたら夕方で、あたりは見知らぬ景色。
買ったことない服着てて、髪染めたこともなかったのに茶髪になってた。
パニクって近くのラーメン屋に入って、ここどこと聞いた。大阪市の福島駅の近くで、時間が一年近く経ってた。ケータイの種類が変わってた。アドレス帳には、「ま」とか「ひ」とか、一文字の名前で電話番号が10程度あったけど、知り合いや実家の電話番号がない。
俺はなぜだか知らないがその知らない電話番号が恐ろしくて、川に捨てた。警察から実家に連絡した。
向こうもパニクってた。俺に捜索願が出てた。
とにかく、帰って、今もまだ月一で精神病院に通ってる。
仕事は元の会社には帰れないみたいだったので、今は派遣やってる。
読みくらべると、リライトでつけ加えたわたしの作意もわかってしまいます。
打ち合わせの時間に遅れてしまい、ダッシュで新宿に駆けつけたところ「制作部は練馬に移りました」と言われ、しばらく途方に暮れる。そんな四コマ漫画な日々を送っておりますよ。ちょっと気がゆるみがちなのかもしれません。もっとデジメに、もとい、まじめに仕事に取り組みます(業界ネタですね)。
ふと思ったこと。『電脳コイル』のファンが「未払いだったけどコイルのためにNHK受信料を払うよ!」とか「コイルを楽しむためにもNHK受信料を払おう!」なんてことをみんなでいっせいにブログなり掲示板なりホームページなりに書いたら、意外に磯光雄監督の次回作もさくっと枠が決まったりして。じっさいそんなに甘くはないでしょうし、ほんとうに受信料を払う人が増えなきゃ意味がないですけども、少なくとも監督および作品の局内での印象はかなり良くなる……かも、です。やり方がやらしすぎますかね。

アニメギガ「とことん!押井守」のオープニング特番を観覧してきました。
まだ放送前なので詳しい内容は書けませんが、宮台真司さんがすばらしい批評をしていました。要約すると、優れた演出家の誰もがそうであるように、押井守監督のいまの作品は若いころにつくった作品の変奏である、ということ。その若いころの作品とは……そう、『あれ』です。実は『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の構造も『あれ』の変奏にすぎない、みんなもっと『あれ』を見ようぜ、評価しようぜ、ということですね。もしかしたらカットされてしまうかもしれませんが、興味のある方は番組をごらんください。もちろん『あれ』も放送されるので、いっしょに見ると楽しいと思います。
『イノセンス』みたいな最近の作品を楽しんでいる若い人が『一発貫太くん』を見たら、どんな感想を持つんでしょうね。いまどきの作品とくらべて「しょぼいなあ」と感じてしまうのは仕方ないとして、これもまちがいなく押井守作品なんだ、と思えるでしょうか。ほかにも『ゼンダマン』や『DALLOS』を押井守作品のどこに位置づけるか。けっこうむずかしいでしょう。鳥海永行さんの影がちらちら見えますしね。アニメギガは年代順に作品を放送するので、「押井守パースペクティブ」をかたちづくるのにはもってこいだと思います。えー、番組宣伝は以上でおしまい。
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テレビのああいう収録にははじめて参加したんですが、いろいろ面白かったですよ。とうぜんバックに音楽はかかってないし、編集ありきで進めるからたくさんミスをするし、そのリカバーをちゃちゃっとやるし。出演者がマイクを通さずに地声でしゃべるので、なにを言ってるか聞こえないことが多くて残念でした。とくに押井守さんの会話の内容はほとんど聞こえず。
大まかな番組の進行は決まっていたと思うのですが、会話の雰囲気に合わせてフロア・ディレクターが進行を変えていく、カンペを出してリアルタイムで流れを整えていくのが楽しかった。収録が30分押しになるほど、押井守さんはしゃべりまくりでした。最後はテープの残りがぎりぎりになって終了でした。
NHK好きにしかわからないかも、ですが、里匠さんは相変わらずの里節フルスロットル。国生さゆりさんはびっくりするほどきれいでした。ほんとおどろいた。井上伸一郎さんは上品なおじさま、って感じですか。わりと初心者向けのていねいな解説をしていました。宮台真司さんは前述のとおり、すばらしい批評を。どっさりノートを持ってきて、会話しながらばしばしメモを取ってたのが印象的でした。もっとしゃべりたかったんでしょうねえ。司会を若いアイドル(?)の方がやってましたが、名前を失念。芸能人とかアイドル方面はうといのですいません。
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(追記)名前を失念してしまった方は、加藤夏希さんでした。失礼しました。そういえば、スタジオ中央のテーブルが特殊なかたちで、ちょうど加藤夏希さんの足のところが開いていた。収録の前に、フロア・ディレクターは「視聴者に見えるから、おてんばな足にならないように」なんて注意をする。そこですかさず、国生さゆりさんが「わたしの足は見えなくてもいいの?」と、若手アイドルに対抗する熟女ネタをかましたんですよ。会場はどっと笑いに包まれた。もちろん収録前のことなので本編には使われないんですけど、楽しかったです。わたしは「ああ、これがテレビなのだなあ」と思いました。

いま日本人の約七割が『自虐の詩』の実写映画化を憂いていると言われます。わたしもそのひとりなのですが、つい最近になって若手お笑い芸人のハリセンボンを見てすぐに「これは幸江と熊本さんじゃないか!」と思いましたよ。こちらの写真の方がそれっぽいかも。
中谷美紀さんじゃあ申し訳ないがきれいすぎる、これでどん底だってさ、ちゃんちゃらおかしいね、と日本人の約七割が思っているわけです。あと、ちゃぶ台返しは絵として抽象化されているから面白いんであって……とは映画を見る前から言いますまい。というか、たぶん、おそらく、約七割がた見ませんが。
(追記)googleにて「自虐の詩 + ハリセンボン」で検索したら、まんまとヒットしました。みんな考えることは同じ。検索結果は約104件ですが、サイレント・マジョリティを合わせると、やはり日本人の約七割はハリセンボンの主演を押しているのだとわたしは約七割がた断定いたします。

アニメ『らき☆すた』を4話まで見ました。その手の作品をたいして見てないわたしが言うのもなんですが、萌えアニメの末期症状かと。冗談じゃなく、「郷原は徳の賊なり!」とのたまう儒家ツンデレがふつうにいるような、なんでもありのカオスに向かったら面白いと思います。強引にでも萌えの限界を広げていって、内側から壊してしまう。たとえば「萌え要素のない人がいちばんの萌えだ!」とか「つらくて厳しいけど、それなりに楽しいところもあったりする現実萌え」みたいな、なんだかよくわからないところまで。物語論としてはそうなると楽しい。
すでにそういう傾向の作品はありますし、そうなったところで萌えアニメみたいな作品が完全になくなったりはしません。極論を言えば、アニメは生まれてこのかたずっと、現実にあふれるノイズを取捨選択する/したいと願う表現だったのですから、たまたまそれに「萌え」というキーワードが与えられて流行ったり廃れたりしたところで、アニメそのものは変わりようがないわけです。表現論としてはそう言うほかない。
『らき☆すた』の1~4話で感心したのは、禁欲的に「退屈さ」を選んでいるところでした。音楽にたとえれば、人が心地よいと感じるポップはあらかたやりつくされて残っていないし、インプロビゼーションは宮崎駿さんくらいしか許されないし、かぎりないサンプリングにはもう飽きてしまった。あとぺんぺん草の生えているところは、みんなが退屈だからという理由で手を出さなかった日常だ、という認識が『らき☆すた』の1~4話に感じられた。ただし、退屈な日常だけじゃ本当につまらなくなるから、ところどころポップ(萌え)、インプロビゼーション(毎回変わるED)、サンプリング(パロディ)をふりまいておく、という感じでしょうか。さすがは映画『リンダリンダリンダ』のパロディをつくった監督だけあります。悲しいかな、退屈な日常はとっくのむかしに高畑勲にやりつくされているのですが、それはそれ。現代に生きるすべての作家にかけられた呪いをふりはらうには、とりあえず、そっちの方向に進むのがベターであります。
5話以降は見ないと思うのですが、おそらくこの「退屈さ」はなくなっていくんじゃないかと予想します。この「退屈さ」を避ける方法はやりつくされていることを反復するだけなので、いくらでも考えつきますし、商売としてはそちらが正しいとされるでしょう。いまのところ「退屈さ」は芸術的・作家的に意味があるだけですから、まあ、仕方ない。
第一話の冒頭、クラウチング・スタートの場面で手前から奥まで細かくピントがわかれているのは実に山本寛監督らしい画面づくりだな、と思いました。ほかの作品でもちらほら見かけるんで、たぶん、こういうのが好きなんでしょうね。つづく走っている場面のカメラぶれとかも。禁じ手だらけの作品なのに、よくまあ隙を見つけてやるものです。あと、メロトロンの入ったBGMがとても良かった。

むかしの日記を読み返したところ、なぜか『時をかける少女』と書いていたところが『太陽』に変わっていました。なんでしょう、このバグは? いつからこうだったのかしら。作品名がちがっていたら、そこの日記を読んでもなにがなにやら、トンチンカンだったでしょうねえ。
しかし、まあ、けっこうたくさんの人が読んでくださっているにもかかわらず「まちがってますよ!」という連絡ひとつない、この孤島っぷり。ヒゲもじゃっぷり。ひとコマ漫画っぷりですよ。わたしは誤字・脱字、誤認・曲解、奇言・妄言の多いたちなので、たまに過去の自分を自分で叱ってあげないといけないらしい。とほほ。
どうやら映画『河童のクゥと夏休み』の評判が良いらしく、とてもうれしいです。あなたもぜひ劇場へ。わたしがこの作品でいちばんギョッとしたのは靴の場面でした。ネットに上がっている感想をいくつか読みましたが、この靴の場面をうまく文章に盛りこんでいるものは少ないですね。原恵一作品にちょくちょく表れる「不良性」が大好きなわたしとしては、ふいを突かれたものの「やってますなあ」と納得できる場面であります。ただ、やはり、全体的な感想として「尺が短すぎる」という不満は持ちました。こういう時間こそが命になる映画は三時間かけないとダメです。

某監督への質問をあれこれ考える。これが実にむずかしいのです。たいていのことはインタビューなどで語られているし、かといって、個人的に知りたいことを訊いてもさほど面白くない。作品をつくるときの細かいこと、たとえばタイムシートはどこまでチェックするか、もう演出処理はやらないと言っていたけど「撮出し」がなくなった現在でもやってないのか、などは訊いてみたいけれど、ちょっと制作サイドによりすぎた質問で、一般向けじゃない。せっかく質問をする機会を与えてもらえたのだから、その場に貢献できない質問はひかえるのが筋だと思うのです。
で、あれこれ考えてひねり出した質問がふたつ。だいぶ無理やりなので、理屈っぽいですよ。質問のねらいは「監督が語りやすそうなこと」と「その場に貢献できそうなこと」のふたつ。
ネットワークを通してパソコンや携帯電話に映画が配信される時代になりました。かつてあった映画の歴史的な役割が変わろうとしています。フォード、ホークス、ラングは化石のようにあつかわれ、シーゲル、アルドリッチ、フライシャーでさえ早々に忘れ去られようとしています。○○○(監督名)さんは演出法を映画の歴史的な作法から学び、培ってきたと思うのですが、こんにちの映画の変わり方に合わせて、その演出法も変わっていくのでしょうか? 変わるとしたら、どんな演出のあり方が予想されますか? 変わらないとしたら、その理由はなんでしょう?
戦争がメディアを通して、映像として報道されるのがあたり前になりました。9.11同時多発テロのボーイング767のニュース映像で、『○○○(作品名)』の○○○(戦闘機名)を思い出した人は多いことでしょう。リアルな戦争がフィクションの戦争と同じように映像を通して語られています。このような時代にあって、戦争の描き方についてなにか意見があったらお聞きしたいです。たとえば新作『○○○(作品名)』の戦争の描き方には、なんらかの時代的な変化があるのでしょうか?
われながら愚問だと思いますし、このふたつの質問に某監督がどういうふうに答え、どんなウンチクを語りだすのか、だいたい予想がついてしまうのが、またつらいところですね。もっと抽象的に「監督に求められる資質とは?」とか「監督にとってアニメとは?」みたいな質問がベターなんでしょうか。でも雑誌じゃないんだから、ライターが文章をまとめやすくするために使われる退屈な質問をくり返すのも芸がないわけで。うーん、まいった。これが「質問力」ってやつですか。いや、固く考えすぎなのか。
ちょっと前に、わたしはイギリス・フランス・東洋という段階をへて思想というか考え方を変えてきた、という話をしました。そういう考え方をたどったおかげなのか、夏目漱石『草枕』が面白くて仕方ありません。
『草枕』は「智に働けば角が立つ~」という冒頭がもっとも有名ですが、わたしのお気に入りは「尻の探偵」です。夏目漱石はたまにくり出すたとえ話が絶品ですね。青空文庫からそこだけ抜き出して引用してみます。ブログのコメント欄が匿名の人からの暴言で埋めつくされるような苦い経験をした人は、大きくうなづきながら読むんじゃないでしょうか。
世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。

飲み会のため秋葉原へ。わたしはアニメーターですが、おたくの聖地と呼ばれる秋葉原にはうとい。最後に訪れたのはたしか学生のころなので、実に4、5年ぶりになります。家を出るときに同居人から「京都に舞妓さんがいるように、秋葉原にはメイドさんが歩いている」と聞きました。そんなまさかとけらけら笑いながら行ったところ、これが事実だったとわかって、たいへんおどろきました。
風紀の乱れなどを理由にメイドさんを非難する人たちに向かって「郷原は徳の賊なり!」ときびしく一喝し、そのあとにっこり笑って「俗耳に入りやすい形式的な批判をする世間的には立派だと思われている人こそ実は徳の賊であると説いた、孔子のことばですよ」とやさしく解説するツンデレはいかがでしょう。儒家ツンデレ。
漫画『万福児』が面白いです。珍妙な動きの笑いが多いので、かなりアニメ向きの題材じゃないかと。どこかがアニメ化しないかしら。やりたいわあ。公式サイトはこちら(音が出ます)、ブログはこちら。各社のスタジオをうろうろすると、けっこうあちらこちらで単行本を目にするんですが、人気はあるんでしょうか。
あと、勇気をふりしぼって告白しますと、わたしは雑誌『小学五年生』で連載中の「王立よしだ第五小学校」が大好きです。
