とうとう『フィルム・アート―映画芸術入門』が出版されましたね。アメリカの大学で定番になっている映画学教科書です。つくる人も、語る人も、必読の一冊だと思います。この内容で4800円は安すぎる!
名古屋大学出版から目次を引用します(一部をこちらで編集しました)。
目次:
第1章 映画製作,配給,興行
第2章 映画形式の意味
第3章 形式上のシステムとしての物語
第4章 映画ジャンル
第5章 ドキュメンタリー映画,実験映画,アニメーション映画
第6章 ショット―ミザンセン
第7章 ショット―撮影法
第8章 ショットとショットの関係―編集
第9章 映画の音
第10章 形式上のシステムとしてのスタイル
第11章 映画批評―分析例
第12章 映画形式と映画史
第13章 映画の見方と書き方
たとえばフレーミングは程度の問題であるということもちゃんと書いてあります。「微妙なロー・アングルと水平アングルを区別する精密で明快な基準点はない。しかも,作り手は専門用語に縛られていない」といったように。こういう基本中の基本だけど軽く見られがちで、あたり前だけど誤解されがちなことをしっかり確認するのは大切なことです。
まだ読みとちゅうなんですが、ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』と、小津安二郎『東京物語』の批評は読みごたえがありますね。映画だけでなく、映像一般、たとえばアニメを語るときにも大いに役立つと思います。
あー、もっと早く読んでおけばよかった。


仏教学の本をあれこれ読んだまとめ:
- もうゴータマ・ブッダのことばは残ってない
- だから残っている資料を解釈して「ブッダの言いたかったこと」を探すしかない
- しかし解釈はそれぞれちがう論理が成り立つ
- どの解釈を取るかは信念・信仰によって決めるしかない
というわけで、仏教学がいくら進んでも、いまの日本仏教のあり方と同じになりそうですね。それぞれの信念・信仰によって、それぞれの宗派を選ぶわけですから。学者さんにはがんばってほしいですが、この徒労感は……。
たぶん袴谷憲昭さん、松本史朗さん、津田眞一さん、宮元啓一さんは信念をかけて論争してるから攻撃的な書きっぷりをするんでしょうね。まあ、わたしは「論争は本でやるなネットでやれ!」と思いますし、人文系の脅迫するようなレトリックは信頼を落とすだけだと思いますが。
残っている資料でいちばん古いのは「パーリ五部」とその漢訳「四阿含経」らしいです。最初期は口づたえだから資料は残ってないとしても、いわゆる第一結集のものとか見つからないものでしょうか。死海文書みたいな考古学の発見があったら面白いのになあ。
仏教が受けた中国文化の影響をトリビアっぽく紹介します。
有名な「拈華微笑」のお話。
釈迦が霊鷲山で説法した際、花をひねり大衆に示したところ、だれにもその意味がわからなかったが、ただ摩訶迦葉だけが真意を知って微笑したという故事。そこで釈迦は彼にだけ仏教の真理を授けたといい、禅宗で、以心伝心で法を体得する妙を示すときの語。
(Yahoo!辞書より引用)
これが書かれている経典は中国でつくられたニセモノで、元ネタは『論語』にある。
先生がいわれた、「参よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といった。先生が出てゆかれると、門人がたずねた、「どういう意味でしょうか。」曾子はいった、「先生の道は忠恕のまごころだけです。」
(里仁篇15章 岩波文庫・金谷治訳注より引用)
小室直樹『日本人のための宗教原論』と『日本人のためのイスラム原論』を読みました。一般人にとっての宗教の知識はこれで充分じゃないかと思えるほど、わかりやすいし、よくまとまっているし、読みやすかったです。おすすめ。
ただ、わかりやすくするために複雑なところを避け、まとめやすくするために都合のいいところをピックアップしてるのが、わたしみたいな素人でも気になります。逆に言えば「ややこしいことはいいから、ずばっと解説してくれ!」という人にはありがたい一冊でしょう。
たとえば儒教についてはこんな感じ:
儒教イデオロギーとは、要するに政治万能主義である。
(略)
その好例が、「論語」の中に書かれている。
孔子の弟子に顔回という男がいた。
この顔回は、数ある孔子の門人の中でもひときわ学問も深く、徳も高い。言うなれば、孔子の秘蔵っ子である。
ところが、この顔回が貧しさゆえに倒れてしまった。食べるものがなく、栄養失調から病気になったのである。
そのとき、孔子はどうしたか。
愛弟子のところにかけつけて、看病したか。あるいは、高価な薬や食べ物を買い与えたか。
まさか、と思われるかもしれないが、孔子は何もしなかった。
「孔子ともあろう人が何と薄情な」と思うかもしれない。
しかし、これは間違った理解だ。
孔子だからこそ、何もしないのである。
彼にとってみれば、顔回のような優れた人間でも貧苦に悩まなければならない、今の世のあり方にこそ問題がある。
天下をよくしないかぎり、顔回のような人間は救われない。
そう考えるのが儒教の本領なのである。
かくのごとく、儒教においては個々人の幸福など後回し。
あのごちゃごちゃした儒教をばっさり、わかりやすく特徴をまとめてあります。すごい抽出能力。
問題は『論語』にはこんなこと書いてないことですね。顔回が寝こんでるような場面はないし、死因も特定できません。書いてないから看病しなかったんだろ、と決めつけるなら、それは小室直樹さんの妄想です。
また顔回が死んで孔子が「天はわれを滅ぼせり!」と叫んだ(先進篇9章)ことは有名ですし、「顔回はわたしを父のように思ってくれたのに、わたしは子のようにしてやれなかった」(先進篇11章)という後悔のことばも残っています。
あと、孔子は病に倒れた弟子のお見舞いにはもちろん駆けつけます。だって孔子ですもの。たとえば窓越しに冉伯牛の手を取って「こんな人でも病気にかかろうとは」と不運を嘆いている(雍也篇10章)。一説によると冉伯牛はハンセン病だったと言いますから、この手を取るという意味は深い。
たぶん孔子の「原儒教」とのちの「経学儒教」を一直線にしたほうがわかりやすいし、まとめやすいから、無理を承知の上で書いたんでしょうね。細かいところが変でもだいたい正しければいいだろ、と。
こんな調子で仏教、キリスト教、イスラム教をばっさばっさと斬って、わかりやすくまとめてくれるのは痛快で楽しかったです。この二冊は内容がけっこうかぶっているので、どちらか一冊を選ぶなら『日本人のための宗教原論』の方をおすすめします。



ゴータマ・ブッダは古代インド人だったので、とうぜん古代人・インド人らしい考え方をしたはずです。これはどうしようもない限界だとわたしは考えます。
しかし多くの仏教書ではそうじゃなかったと書かれるんですよね。信仰の立場からならまだわかりますが、学問の立場からでも似たり寄ったりなのはどうしてでしょう。
たとえば孔子は、怪異と神秘は口にしなかった(述而篇20章)というほど当時にしては驚くべき現実主義者でしたが、それでも、聖天子の誕生を知らせる鳳凰を信じていたし(子罕篇9章)、天命がこころのよりどころでもありました(述而篇22章)。これが古代人・中国人である孔子の限界だとわたしは考えます。
もしかしたら、ブッダと孔子の「キャラのちがい」が大きいのかもしれませんね。ブッダは孤高の超越した人ってキャラですが、孔子はその失敗や限界をふくめたチャーミングな人ってキャラです。この「キャラのちがい」で書かれ方に差ができてしまうのかも。
ちょっと『論語』から孔子の人間くさいエピソードとか、とほほエピソードを拾ってみます。
- 何度も「人に理解されなくても怨んだりしないよ」と強がる(学而・里仁・先進・憲問・衛霊公)
- ぽろっと「誰もわたしの才能や志を理解してくれない…」とこぼす(憲問篇37章)
- 弟子に論破されて「口のうまいやつは信用できない」と言いわけ(先進篇25章)
- 淫蕩な美女南子に会いに行き、弟子に「天に誓ってなにもしてない!」と言いわけ(雍也篇28章)
- 恋しい人は家が遠い、という詩に「本当に恋しいなら遠いとは感じない」とダメだし(子罕篇32章)
- 田舎をからかう冗談を言ったら弟子にマジギレされる(陽貨篇4章)
- 身内びいきを指摘されて「わたしの過ちを気づいてくれる人がいる」と喜ぶ(述而篇30章)
- 「働きもせず、五穀の区別もできないあんたが大先生か」といやみを言われる(微子篇7章)
- 祭祀用具について質問したら「大先生はなんにも知らんな」といやみを言われる(八侑篇15章)
- 「だめなのを知りながらやってる人だろ」といやみを言われる(憲問篇40章)
- 「孔子より弟子の子貢の方が優れている」とウワサされる(子張篇23章、25章)
- 歌のうまい人がいるとくり返させ、次に孔子もいっしょに歌う(述而篇31章)
わたしは最後の孔子が歌ったエピソードに「おまえはタモリか!」とツッコミを入れながら読んでおりますよ。ええ、キモイでしょう、キモイでしょう。
むかしから『論語』は教育や道徳あつかいされますが、楽しい場面や涙を誘う場面もたくさんあって面白いです。



宮元啓一『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』、『ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ』を読みました。
はじめに正直に言いますが、わたしは宮元さんをあまり信用してません。なぜなら「現代人」で「哲学者」で「経験論者」の宮元さんは、ゴータマ・ブッダが「現代人」っぽい「哲学者」で「経験論者」だったと解説するからです。よくある聖人におのれの姿を重ねてしまう罠にかかっていると思うんですね。
宮元啓一さんの思想とその問題点について、ざっと書きます。宮本さんは、ブッダは神秘主義者ではなく、あくまで経験にもとづいた合理的な思考でさとりに至ったと主張しています。しかしこれはかなり無理がある。神秘主義者でないなら、なぜ変化する悪魔を語ったのか。経験にもとづいたのなら、なぜ経験的に把握できないアートマンや輪廻について語ったのか。合理的な思考をしたなら、なぜそれを弟子たちに合理的かつ具体的なことばで説明しなかったのか。
はじめの『仏教誕生』では新書ということもあり、細かな説明を省いているのでボロは少ないです。つづく『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』では説明を加えたせいで、かなりおかしなことになる。最後の『ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ』では極端に言うと「ブッダはおれと同じだったはずだ!」みたいな妄想にとりつかれてしまった。
これに関しては、reverie さんによるすばらしい書評があるので、詳しくはそちらを参照ください。この方は元オウム真理教関係者だったらしく、ひじょうに専門的です。また哲学を学んでいたらしく論理的でもあります。
以下、気になったことを書きます。
古くからブッダの語った空は「実体はない」という意味だと思われていました。ようするに「この世のすべては意識がつくり出した幻である」ってことですね。しかし宮元説では、ブッダの空はあくまで「この世は意味がない、価値がない」という意味でしかないと解釈されています。これは面白いと思いました。
なにしろ仏教はむかしから空による無我と輪廻が論理的に調和しないことで、もめまくってきた歴史があるからです。空ゆえに実体はない、しかしアートマン、阿頼耶識、如来蔵は実体としてあって輪廻するというのは変じゃないか、というわけですね。もし空が宮元説の「この世は意味がない、価値がない」という意味だけなら、輪廻と論理的に調和することができます。まあ、宮元説が信頼できるならば、ですが……。なんとなく無我と輪廻の終わりのない議論を避けるために、あえて空の意味を限定したような気もします。
あと、ブッダがごく簡潔にしか説かなかった縁起説をより緻密に形而上学的に展開したのはサーリプッタ(舎利弗)である、という指摘も面白かったです。つまり仏教はかなりの程度でサーリプッタ教である、と。如来蔵思想を批判した松本史朗さんは「仏教とは縁起説である、ゆえに如来蔵思想は仏教ではない」という立場ですが、ちょっと困ったことになりますね。まあ、この宮元説が信頼できるならば、ですが……。



仏教系の本をあれこれ読んで、毎日のようになむなむ(混乱)しています。ここ20年くらいの近代仏教学は面白いですね。目覚しい成果をつぎつぎに上げています。もちろんいままでの仏教学の成果があってこその成果ですけども。
近代仏教学の成果は大きくわけると次のふたつ:
- ゴータマ・ブッダ(原始仏教)がなにを説いたのかがだいたいわかった
- そこから後年でゆがめられたところがわかった
このふたつを根拠にして、いま仏教と名のつく宗教の批判をしているところだと思います。たんに葬式仏教うんぬんと批判するだけじゃなく、たとえば如来蔵思想、本覚思想、大乗思想は学術的に見て仏教ではない、なんてふうに批判をしている。
面白いことは面白いんですが、「で?」となりますね。次のステップに進んでほしい。そして次のステップがどこに向かうのかにも興味があります。
もちろん哲学および思想が科学に対抗できるのか、というあまりにも分が悪い戦いを望んでるわけじゃありません。極端にいえば、いまのところ近代仏教学の成果は、「Gmailをうまく活用する」みたいなライフハックの成果にも届いていないわけで、もうちょっと、ほら、なんかあるでしょう、と。
まあ学問に実利をもとめすぎるのもなんですし、そもそも実利をもとめる人情によって仏教が変わってきた歴史を考えると、むずかしいとは思います。
ちょいと調べたところ、ゴータマ・ブッダの説いた原始仏教の教えは、使われることばが特殊なだけで、現代人ならそれほど苦労しなくてもわかるな、と思いました。とくに学者さんの解説したものは論理的に書いてありますから、科学・数学・哲学・心理学などの現代語でじゅうぶんに理解できる。
ものによってはカント、デカルト、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーを1000年以上も前に先取りした考え方でしたが、ゴータマ・ブッダは誰にも教わらず、たったひとりで気づいてしまった。あまりにもグレートなおじさんだった。
ブッダがこれを説明するのはさぞかし大変だったろうな、と思いますね。まず当時のインドでは説明するためのことばが足りないし、説明しつくしてもほとんどの人は理解できなかったことでしょう。あまりにも早すぎた。早すぎおじさんだった。
加えて、たとえ理解できても実感はできなかったと思います。たとえば現代人なら「この世のすべては意識がつくり出した幻である」という考え方を理解はできるし、瞬間的にならそういう考え方をすることはできますが、それを経験・体験レベルで実感することはまずできません。
まあ、寝てもさめてもずーっと「この世は空だ」と思ってすごすことなんて、ふつうできないですよ。目の前にあるものは幻だとしても、その幻のリアリティが勝ってしまう。空よりも空腹が勝ってしまう。できることなら最高の幻を見たいと凡夫は考えるもんですが、ブッダはそうじゃなかった。セイントおじさんだった。
わたしが原始仏教を調べていて最初に「?」だったのは、ブッダは輪廻はあると思ってることですね。つまり「この世のすべては意識がつくり出した幻である」なら、輪廻だって幻ってことになります。でもブッダは輪廻はある、しかしそこから外れる(解脱)ことはできる、というふうに考えていた。これは論理的にはおかしい。
もしかしたら、そこが古代インド人の限界、ブッダの限界だったのかもしれません。この考え方は解脱するための方法だったので、ブッダは輪廻そのものの否定はできなかった。どこまでも古代おじさんだった。インドおじさんだった。のちの大乗仏教は業のデータバンク(阿頼耶識)があって、それが輪廻をぐるぐるまわるのだ、なんて説明をしましたが、理屈としては強引だと思います。
それにしても大乗仏教のわけのわからなさはすごいですね。理論と妄想と物語のてんこもりで、大まかな内容をざっと見回すこともできません。華厳の融通無碍の壮大なヴィジョンと、禅のとんち話は楽しいですが、もう少し調べたらどこかで打ち切ります。学者さんは大変だなあ。
大乗仏教は物語をつくる人とか、物語を楽しむ人にとってはネタの宝庫だと思います。物語のネタは聖書だけにあらず。
ちょいと調べたところ、このブログの読者さんが使っているブラウザは圧倒的に Internet Explorer 6 が多かったです。次に多いのは Mozilla Firefox 2 ですが、数にして三倍ほどの大差をつけられてます。わたしはブラウザをまめに更新するので、ちょっと驚きました。
で、はっと気づいたんですが、ここのデザインは Internet Explorer 6 に対応してない! 急いでCSSを書き換えました。両側にスペースをとっただけですが、ちょっとだけ読みやすくなったと思います。
このwordpressのブログはvicunaというデザインのテンプレートを使ってます。これはとても簡単かつ便利な機能つき。ただし、いまごらんのデザインはその便利な機能をかたっぱしから削除していったもので、たとえるならvicunaの枯れ木です。なんか申し訳ない。個人で細々とやってるブログにごてごてしたSEO対策(検索エンジン最適化)は必要ないと思ったので……。
エンタメの話題ははてなダイアリーで書き、日常の話題はmixiで書き、政治の話題はブログで書き、食べものの話題はまたちがうブログで書く、といったように、話題ごとに複数のサービスを使う人は多いと思います。
そういう人にお願いなんですが、どうせ複数を管理するなら、あちこちに書いた内容をまとめて一本化したブログも立ち上げてほしい。ブログならカテゴリで区別できるんですから、「映画」も「政治」も「柳沢きみお」もミックスしてひとつのブログで管理できるでしょう。もう、いちいちぜんぶ読みに行くのはかったるいんです。日々増えていくブックマークだってぐっと減らせる。
読みやすさとアクセス向上のためにブログの話題はしぼった方がいい、という理由はわかります。柳沢きみおファン倶楽部のなかに『ヨブ記』の感想があってもノイズにしかなりませんからね。しかし、ここで提案する「一本化したブログ」は「話題をしぼったブログ」と敵対するわけじゃありません。ただふたつを管理すればいいだけのこと。アクセスは二分されるかもしれませんが、減るわけじゃない。もしかしたら新しい客層だって開拓できるかもしれませんよ。
もちろんプライベートなことはクローズドなmixiで書いた方がいいでしょう。でも、あたりさわりない内容もmixiで書いてはいませんか、あなた。そこの柳沢きみおファンのあなたですよ(誰だ)。こういうあたりさわりのない内容は、一本化したブログを持っていればそこに書けばいいと思うんです。
なんなら捨てブログでいいんです。デザインとか凝らなくてもいい。もともとあった画像をなくしたっていい。とにかく、あちこちで書いた文章をまとめてさえあれば。こういう要望はけっこう多いと思うのですが、いかがでしょう。
以上、ささやかなお願いでした。