丹野顕『江戸の色ごと仕置帳』を読む

丹野顕『江戸の色ごと仕置帳』を読みました。不倫、レイプ、売春、心中などの「色ごと」犯罪を江戸時代の奉行がどんなふうに裁いたか、裁判記録から見ていこうという本です。おもしろかった。

裁判記録から浮かび上がってくるのは封建制や家父長制などの政治・思想にゆれる人々のいとなみでした。とにかく女性のあつかわれ方があんまりでおどろきます。フェミニストの方は「男尊女卑の政治がいかにひどかったか」の実例集として読むのも一興でしょう。

密通はいまふうに言えば不倫ですが、現代よりも意味が広くて、結婚するつもりの若い男女が親に隠れて愛し合うこともふくまれます。そして密通のほとんどは、死刑、追放刑、磔(はりつけ)、獄門とへヴィーな刑に処される。のんきに「不倫は文化」なんて言ってられません。

美人で評判だった白子屋のおくまは、世間ではふつう持参金を持たせて嫁入りさせるところを逆に持参金つきの婿入り話があった。しかし婿養子になった又四郎は実直でおもしろみに欠ける人物だった。おくまはかねてから恋仲だった忠八と不倫をつづけ、白子屋の人たちも又四郎を邪魔者あつかいした。

おくまの方から離婚を申し入れると持参金をそっくり返さなければならない。そこで白子屋の人たちは又四郎の膳に毒を盛ったり、下女との心中をよそおって殺そうとした。からくも逃げのびた又四郎は南町奉行大岡忠相に訴え出る。白子屋の人たちや忠八は刑に処され、おくまは町中引廻しの上、死罪となった。

ところが大岡裁きとは別に『恋娘昔八丈』で、おくまは悲劇のヒロインとして人気者になる。

白子屋おくまは彼女の密通自体も庶民の間では美化された。殺されかけた実直者の夫には同情は集まらず、「毒婦」とよばれながらも、好きな男へ献身して処刑されたおくまが憧憬された。こうした背景には、愛し合った者同士がなかなか結婚できない江戸時代の結婚事情が厳然としてあったからである。

レイプでは「幼女姦」をのぞいて多くの場合が軽罪だったらしいです。同じように男尊女卑が理由のひとつではありますが、「レイプで女がいい目にあわされた」なんて意味をふくませた川柳(=世論)が残ってもいる。裁判記録に残っているのは泣き寝入りできなかったケースばかり。さすがに読みながら、うげげ、となりました。

ほかには、私娼の発生から吉原や夜鷹の歴史、心中ブームが起こって幕府は「心中」とは言わず「相対死」と呼ぶようにお触れを出したり、僧侶を悩ませた「女犯」と極刑、などなどが書いてあります。でも実は、おもしろいのはDV(ドメスティック・バイオレンス)について書いた最終章です。

江戸時代は、男尊女卑が支配する封建的な倫理観と法律にしたがっているため、DVのトラブルは日常的によく起っていた。がしかし、それが日常風景だからこそ、公的な裁判記録にはほとんど書かれていない(!)。

つまり、ここまで読んできた裁判記録にもそのような記録に残されない「事情」や「風景」や「空気」があったということです。最後のどんでん返し。あらためて最初から読み返したくなる最終章だと思いました。

江戸の色ごと仕置帳 (集英社新書)

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山倉慎二『内科医からみた動物たち』を読む

山倉慎二『内科医からみた動物たち』を読みました。Discovery Channelとかが好きな人におすすめの動物本です。動物園に持っていきたい一冊。おもしろかった。

キリンは長い首の先まで血液を送るために最高血圧が200~300mmHgある! もう、のっけからこころを鷲づかみにされましたね。これだけ血圧が高いと脚などはむくんでくるはずですが、キリンの皮膚は厚くごっつくなっていてぴったりからだを覆っているから、むくんだりしない。へー。

『アイアイ』というかわいらしい歌に登場するアイアイではあるが、実はとてもサルの仲間とは思えない不気味な姿をしている。(略)その奇怪な姿ゆえ、島の住人には「見つけたらすぐに殺さないと悪いことがおこる」といわれるくらい忌み嫌われていて、そのために絶滅の危機に瀕しているという。どうしてあんなかわいい歌になったのか。

だいたいはこんなトリヴィアルな話が多いんですが、やっぱり動物本といえば「速!」「デカ!」でしょう。

動物界の俊足といえばチーター。時速100~120kmで、止まった状態から走りはじめても100メートルを4秒でゴールします。ただし200メートルで体力を使い果たしてしまうので狩りの成功率は高くない。チーターはネコ科なのに幼少期にしか爪をひっこめることができず、イヌ科に近いと言われます。

プロングホーンはMAX時速96kmで走るうえに、時速70kmほどにセーブすれば6~7キロを走りつづける、総合力ではチーターに勝るすごいやつです。でも、動くものを調べたがる習性のせいで、旗を振った人に近づいてはばんばん狩られてしまった。頭は悪いなあ(人間基準で言えば)。

一種で一属、一科、一目を構成する珍しい動物のツチブタは、固い地面でも2~3分で穴を掘って隠れるそうです。こういう動画がYoutubeにアップされるような時代が早く来てほしいものですね。どうでもいいですが、ツチブタ – Wikipediaの寝てる画像が超かわいい。

200万年前、アメリカ大陸にはメガテリウム(オオナマケモノ)が生息していたそうです。体長4~6メートル、体重3~5トン。二本脚で立ち上がるとゾウの体高の2倍。ああ、凶暴化したメガテリウムが渋谷の街をぶっこわし、東京タワーにしがみついてのんびりしている映像が見たい。(Wikipediaによると、全長6~8m、体重3トン、体が重たいので木には登らないそうです。がっかり)。

イノシシそっくりのペッカリーは100頭を超える群れで生活していて、特にリーダーは決まっていない。ジャガーやピューマに襲われると見張り役の一頭が犠牲になって立ち向かい、ほかのものを逃がす。この人間にとって利他的とも感じられる行動は、なかなかおもしろいですね。神話などのネタになってそうです。

ややこしいことでおなじみの動物分類は:

種(species)
属(genus)
族(tribe)
科(family)
目(order)
区(cohort)
綱(class)
門(phylum)
界(kingdom)

で、さらに詳しく分けたいときは上、亜、下をつける。たとえばグランドガゼルなら:

脊椎動物門、哺乳動物綱、獣亜綱、真獣下綱、猛獣有蹄区、側軸上目、偶蹄目、反芻亜目、ウシ下目、ウシ科、ブラックバック亜科、ブラックバック族、ガゼル属、ダマガゼル亜属、グランドガゼル

となるそうです。ここまで長いと極道が仁義を切ってるみたいですね。おひかえくだすって、ありがとうござんす、手前、脊椎動物門、哺乳動物綱、獣亜綱…(略)…グランドガゼルと発します、以後、万事万端よろしくお願い申します。

「内科医からみた」というタイトルなので、動物のおもしろ話にからめて医学ネタがはさまれます。睡眠、肥満、出産、乳児の突然死、HIVやインフルエンザ、人間中心主義への危惧など。科学ネタは、ラマルクの用不用説、ダーウィンの自然選択説、フリースの突然変異説など、おなじみの話題が多かったです。

まだインターネットが発達する前、わたしが小学校から中学生くらいのころにこういう本に出会いたかった、と思いました。

くり返しますが、ツチブタ – Wikipediaの寝てる画像が超かわいい。

内科医からみた動物たち―カバは肥満、キリンは高血圧、ウシは偏食だが… (ブルーバックス)

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B.R.アンベードカル『ブッダとそのダンマ』を読む

B.R.アンベードカル『ブッダとそのダンマ』を読みました。熱い宗教書です。おもしろかった。

いきなり、ゴータマ・ブッダの出家はコーリヤ国とシャカ族の内紛のごたごたに巻きこまれたことが理由だった、という創作小説からはじまります。わたしは度肝を抜かれましたよ。だって仏伝の「書き換え」を行っているのだから。

ほかにもブッダが説いたあれこれが、ことごとく現代的・科学的に「書き換え」られていきます。たとえばカルマ論について、仏教は、ブラーミズムとヒンドゥーイズムとはちがうと主張されます。両者のカルマ論を同一視してはいけない、と。

ブッダの前世カルマ論は科学的である。彼は前世カルマの遺伝性など信じなかった。誕生は発生学的であり、子供の受ける遺伝は総てその両親から受け継ぐと考えていたブッダにそんなことがどうして信じられよう。

さらに。

前世カルマが来世を支配するというヒンズー教義は正に邪悪なものである。このような教義を作り上げた目的は何であったのか。考えられる唯一の目的は、国あるいは社会が貧しく身分の低い人びとの悲惨な状態に対し責任逃れするためである。(略)大慈悲の人として世に遍く知られるブッダがこのような教義を擁護したなど想像することすらできない。

ここまでくると痛快で、わたしは「もっとやれ!」と思いました。もちろん、いたずらに「書き換え」るばかりじゃなくて、仏典をきちんと読みこんだ引用もほどこされます。仏教が神の存在を否定したというのは、おそらく行きすぎですけども、霊魂を否定する(あるいは霊魂について語らなかった)のはそのままです。

アンベードカルは、ヒンドゥー教は迷信と不合理に満ちていて現代科学の批判に耐えられない、いまこそ合理性をもった仏教がインド国家と宗教を救うのだ! と言います。ブッダは道徳性の確立と、平等社会の実現を目指し、サンガ(修行者の集まり)は理想社会のモデルであり、ビク(修行者)は理想社会建設の奉仕者である、うんぬん。ヒンドゥー教の破棄、下層不可触民の地位向上を目的として、仏教をパワフルに「書き換え」てゆく。

捏造された聖書』を読んだばかりで言うのもなんですが、宗教ってむかしの形のままでは使い勝手が悪いんですよね。現代に通じるようにするためにはアレンジするしかない。だから「書き換え」る、いまのインドを救うために! 宗教は、まさに、ここにある。そう思います。

アーリア・ナーガルジュナこと佐々井秀嶺さんの巻末コメントも熱かった。2004年に「この義いかん!!」なんて書く日本人はこの人をおいてほかにないでしょう。わたしはテレビで『NONFIX 男一代菩薩道~インド仏教の頂点に立つ男~』を見て以来のファンです。

いかにインド民衆、いかにインド仏教徒下層民衆をして、創価学会に入り、いかに日蓮宗、天台宗、真宗、禅宗、天理教、霊友会等々に走り入信するも、その全インド仏教徒の中心的生命は、不動像、不屈像、不退像のビーム・アンベードカル大菩薩であり、その全生涯にわたる思想行動であり、その大蔵経に匹敵する一切著書であり、その最勝最大のバイブルは『ブッダとそのダンマ』であるということを忘却することなかれ!!

下手にさわると火傷しそうなくらいの絶賛です。でも、インド下層民の悲惨な事情を知っていると、佐々井秀嶺さんはこれでも抑え気味なんだとわかります。

ブッダとそのダンマ (光文社新書)

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バート・D. アーマン『捏造された聖書』を読む(2/2)

(つづき)

では本文批判はどうやって改竄を見抜くのか? その方法がおもしろかったので、歴史的なこともふくめてざっとまとめてみます。

ユダヤ・キリスト教は書物の宗教としてスタートした。しかし聖書は識字率の低さと雑な手作業のせいでとんでもないミスだらけになり、くわえて解釈の多様性から改竄だらけになる。識字率が上がり、プロの書記があらわれ、印刷できるようになって、エラーたっぷりの聖書が大量に出まわることになり、現在にいたる。

本文批判はエラーを「外的証拠」と「内的証拠」にわける。

外的証拠は写本そのものを調べる。異文Aの書かれた写本が50冊見つかり、異文Bの書かれた写本が1冊しか見つからなくても、多数決にはならない。写本の数よりは、写本の年代や、底本が古いほうをオリジナルに近いと考える。しかし古ければよいわけではなく、最初期のテキスト伝承は質的にひどかったので、絶対的な基準にはできない。あくまで内容から合理的な取捨選択をおこなう。

異文の地理的な分布もある。地方で見つかる異文より、広範囲で見つかる異文がオリジナルに近いと考える。オリジナルと判断される文はふつう最良の写本グループから見つかる。写本グループには、ビザンチン・テキスト、西方テキスト、アレキサンドリア・テキスト(中立テキストをふくむ)がある。

内的証拠はテキストの内容を調べる。たとえば著者の文体・語彙・神学から、いかにも改竄しそうなところをさぐる。ある異文が著者の書いたそれまでの文と似ている場合は、改竄である可能性が高い。反対に、著者の書いたそれまでの文とちがっている場合は、改竄である可能性は低くなり、オリジナルに近いと考える。

書記がいかにもしそうな改竄もさぐる。たとえば書記はテキストの誤りや矛盾や神学を自分の思ったとおりに直す。ふつう改竄は、わかりにくい文をわかりやすい文に書き換えるもので、わかりやすい文をわかりにくい文にわざわざ書き換えたりはしない。だからベンゲルの「より理解困難な文こそがオリジナルに近い」という考え方が一般的になる。

以上の方法でたんねんに調べても、学者によって下す結論はさまざま。オリジナル・テキストの確定はむずかしいが、それが聖書の理解におよぼす影響は無視できない。

捏造された聖書

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バート・D. アーマン『捏造された聖書』を読む(1/2)

バート・D. アーマン『捏造された聖書』を読みました。聖書のオリジナル・テキストを復元しようとこころみる本文批判についての本です。著者はキリスト教徒ですが学問の立場から書かれていて、内容はごくまっとうでユーモラス。たいへんおもしろかった。松田和也さんによる翻訳もすばらしい。

内容は、著者の自伝からはじまり、ユダヤ・キリスト教のなりたち、聖書のできるまで、改竄のあれこれ、改竄を見抜く方法論を確立する道のりと現代の方法、研究によってくつがえされた内容と解釈、などなど。かなり盛りだくさんです。著者いちおし、ウェストコットとホートの『ギリシャ語原語による新約聖書』はわたしに理解できる内容なら読んでみたい思います。

聖書の改竄はもうあたり前というか、みんな知ってるけど無視しようねって感じでしょう。でも、じっさいどんな改竄が行われて、本文批判はそれをどう見抜くのか? これはわたしもこの本ではじめて知りました。

たとえば『ヨハネによる福音書』7:53~8:12の姦淫を犯した女とイエスの話は有名ですし、わたしも好きなエピソードのひとつです。この部分がオリジナル・テキストに入ってなかったことを証明していくくだりは、ひじょうにスリリングで楽しかった。本文批判が「探偵業」と呼ばれるだけありますね。

関係ないですが、わたしは『マタイによる福音書』21:18のエピソードも好きです。空腹のイエスは、葉っぱしかつけてないイチジクの木にキレて「おまえは二度と実をつけるな!」と言い、イチジクの木はすぐに枯れてしまった。どんだけわがままなクソ野郎なんだ、イエスは。

それはともかく、キリスト教といえば三位一体です。こじつけとしか言いようがなく、何世紀にもわたってもめまくった歴史がおもしろいところです。とうぜんイエスを「神の子」に仕立て上げるために、たくさんの改竄があった。

ギリシャ語の「ΘΣ」と「OΣ」は、テンがあるかないかで、イエスが「神の子」なのか「人の子」なのか意味が分かれます。J・J・ヴェットシュタインは、テンだけ周囲とちがうインクが使われていたことや、テンが古い羊皮紙の裏のインクが染み出したものだと発見。イエスを「神の子」にするための意図的・偶発的な改竄が行われていたのでした。

また、イエスの発言のまちがいもことごとく修正された。異教徒からの批判に対抗できるように、イエスは「大工」ではなく「大工の子」に訂正された。処女マリアから生まれたという設定を統一するために、ヨセフのことを父と呼んだ場所は書き直された。

なんだか「神の子」にかけられた期待の大きさがうかがえますね。死せるキリスト、生ける教徒を走らす。

本文批判は、江戸時代に大乗非仏説と言い放った富永仲基のやったことによく似てます。富永仲基や近代仏教学が仏教徒に無視されているのと同じように、本文批判もキリスト教徒に無視されているんでしょうかね。いまさら仕方がないじゃん、なんてふうに。「不条理ゆえにわれ信ず」でも、研究によって不条理が条理になったら困るし、不条理がもっと不条理になっても困ってしまう。ここらへん宗教のむずかしいところなんでしょう。

聖書には学派争いの歴史が刻まれているようですが、その点で、儒家八流が争った歴史が刻まれている『論語』と似てます。『論語』の本文批判は、武内義雄、津田左右吉、和辻哲郎、金谷治、木村英一、白川静らの研究によって「三年の喪」や「宰予の昼寝」や季氏篇は後世の加筆だと判断されました。ただし『論語』は残っているのが「魯論」校定本だけなので、写本を比較できないもどかしさがありますね。ちょっとだけ聖書がうらやましい。

4世紀当時は、どこの誰が書いたのかわからない福音書、言行録、黙示録、書簡がうじゃうじゃあったそうです。それをアレキサンドリアの司教であるアタナシウスが「新約聖書は二十七編のみ」と決めた。西晋の郭象が十万語五十二篇あった『荘子』を整理して六万五千語三十二篇にまとめたのといっしょですね。あるいは天台智覬が膨大な仏典のヒエラルキーを決めた教判といっしょ。いまもむかしも、西も東も、十人十色のようです。

『ヴァティカン写本』のなかの見慣れない「顕わす(PHANERON)」という単語を一般的な「支える(PHERON)」に書き換えた書記が、数世紀後の書記に毒づかれるのは、さすがに笑いました。欄外に「阿呆かお前は! 元のままにしておけ、勝手に変えるな!」と書いてあるんですよ。著者はこれをコピーして額に入れて壁に飾っているそうです。

捏造された聖書

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加藤幹郎『映画館と観客の文化史』を読む

加藤幹郎『映画館と観客の文化史』を読みました。日本語で書かれたはじめての映画館(観客)論というだけあって、知らないことがばんばん出てきてたいへんおもしろかったです。映画に興味のある人は必読! 

「大きなスクリーン」に「拡大して写された映像」を「たくさんの知らない人」と「同じひとつの場所」で「動かないイス」に座って「なるべく静かに」して見ること。いま映画体験はこういうものだと思われています。DVDで見るのは映画じゃないよ、なんてふうに。

ところが映画が生まれてから現在までの上映装置(映画館)をふり返ってみると、こういうもろもろの決まりごとは歴史的産物にすぎないとわかります。つまり映画の見方なんて時代ごとに変わるってことですね。あたり前の話なんですが、映画史の起源をリュミエール兄弟にもとめてしまうと見えてこない歴史でもある。

この本は興行・上映・観客の歴史をアメリカ篇・日本篇の二部構成で縦横無尽に語ります。パノラマ館からはじまり、キネトスコープ、ニッケルオディオン、ピクチュア・パレス、ドライブ・イン・シアター、シネマ・コンプレックス、アイマックス・シアター、そしてビデオやDVDまで。日本では連鎖劇、弁士、小唄映画、トーキーなど。

以下、おもしろかったところをぽつぽつ拾っていきます。

「蔭科白」はアニメの声優っぽくておもしろいですね。

日本で「蔭科白」と呼ばれる、サイレント映画の疑似トーキー化も映画史初期から古典期への過渡期まで世界各地でおこなわれていた。スクリーンの裏で各登場人物に扮した複数の「役者」がサイレント映画の登場人物になりかわって台詞をしゃべるのである。

スクリーンの裏なのに「登場人物に扮した」のはおかしく思えますが、ときにはスクリーンの前に出てきて役どころをこなすことがあったそうです。芝居と映像をミックスした連鎖劇もこの流れにあるんでしょう。ちなみに「蔭科白」をgoogle検索したら、たった一件しか引っかかりませんでした。

ドライブ・イン・シアターはとてもなつかしかった。わたしは小さいころ『バタリアン』などを見た記憶があります。帰りの車のなかで寝ちゃって、親にベッドまで運んでもらうのがなにより好きだった。ドライブ・イン・シアターは1933年にアメリカではじまり、1950年代なかばに黄金期をむかえ、それ以後はテレビに追いやられていきます。

なかば公共圏、なかば私的空間というドライヴ・イン・シアターで熱い「セックス・コメディ」にあてられた若いカップルが車内でことにおよぶという事態は当時からゆゆしき社会問題として取りあげられた。

きっと冴えない童貞たちは「ドライブ・イン・シアターでのぞきをしよう!」なんて考えたりしたんでしょうねえ。たとえば:

***

スティーブンとジョージは大の仲良し。いつもジーパンとジージャンを着て映画ばかり見ていた。
ふたりは未成年で免許を持ってないけど、どうしてもドライブ・イン・シアターで映画が見たい。いや、のぞきがしたかった。
そこに兄貴分のコーマン先輩がやってきて「おれは兄と顔がそっくりだから、ポリスに捕まっても兄の免許を出せばOKだぜ!」などと言う。コーマン先輩はこういうくだらないアイデアにかけては天才なのだ。
いざドライブ・イン・シアターへ!

映画そっちのけで、のぞきにふける三人。前の車のカップルはどんどん盛り上がっていく。
女がブラジャーを投げ捨てる。
「スティーブン、おまえのあそこ、もうガチガチじゃん!」
ジョージは、チンコとまちがってつかんだシフトレバーを倒してしまう。
女がパンティを投げ捨てる。
童貞三人が「ひゃっほーい!」と叫ぶと同時に、コーマン先輩がアクセルをふんずけ、車は急発進。
前のカップルの車にドカンとぶつかる。
「とほほ、こりゃダディに大目玉だぁ……」

この経験にヒントを得たコーマンは童貞映画の帝王となり、事故のトラウマを克服したスティーブンは『激突!』で喝采をあび、ジョージはコーマンなんかとつき合うからダークサイドに落ちるのだと『スター・ウォーズ』を撮って大ヒットを飛ばしたという。
落語「アメリカの夜」の一席でございます。お後がよろしいようで。

(鳴り物で『蒲田行進曲』のテーマを演奏しつつ幕引き)

***

えーっと、こんな妄想で楽しみました、という話です。なんだこりゃ。

妄想のついでと言ってはなんですが『興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史』とあわせて読むとおもしろさ倍増だと思います。

映画館と観客の文化史 (中公新書) 興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史

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映画『僕のピアノコンチェルト』を見る

映画『僕のピアノコンチェルト』を見ました。「おみごと!」としか言いようのない映画でした。10年に一本の傑作。公式サイトはこちら

テクニカルな演出をさらっとこなしていて、さらに、いやみじゃないんですよ。演出が「どや」顔しない。たとえば予告にも使われていたところですが、主人公のヴィトス(6歳)がホームパーティでわざと下手くそな演奏を披露して、まわりの大人たちを安心させたあと、すぐさま神技をビシバシ決めて一同を唖然とさせる場面。あるいは子と母の関係をしめすたばこの場面。またはピアノの前に座って弾くか弾かないかでさりげなくサスペンスを生み出す場面。いちいち、うまい。そして、それをことさら主張しない。

おそらく後半に入ってヴィトスが「天才を超えてしまう」あたりをどう見るかで映画の印象が変わると思います。わたしは総合点が高いからという理由でOKでした。そういえば、飛び級した学校に通う場面で年上にからかわれるあたりは、ちょっとだけジョディ・フォスター監督『リトルマン・テイト』に似てましたね。

わたしなどは本物の神童が演じて奏でる様子が見られただけで、もうお腹いっぱいでした。子供らしい華奢な指先がピアノの鍵盤に吸いこまれるように目まぐるしく動くんですよ。一瞬なにが起こったのかわからなくなるほど衝撃的でした。

6歳のヴィトスを演じたファブリツィオ・ボルサニも、12歳のヴィトスを演じたテオ・ゲオルギューも、目がくりくりと大きくてかわいらしい。なまいきな口をきくところで「きゃー」、演奏中に顔つきが変わって真剣そのものになるところで「きゃー」でございます。美少年の好きな方はぜひ。

ほかでは、ブルーノ・ガンツがひょうひょうとした老人を好演。雨漏りする家に住んでいながら、汚い倉庫に「あるもの」が見つかる場面で、わたしはげらげら笑いました。ナイスじじい。お母さん役の人(名前わからず)も実に良かった。とくに後半で大活躍するのですが、ネタバレになるので残念ながら書けません。お父さん役の人(名前わからず)は、ヴィトスが6歳から12歳へ飛ぶとき、さりげなくハゲが進行しているのがおもしろかったです。

僕のピアノコンチェルト [DVD]

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関裕二『「古代史」謎解きのヒント』を読む

関裕二『「古代史」謎解きのヒント』を読みました。手持ちぶさただったので会社の本をレンタル。こういう一時間足らずでさくっと読める本は内容に関わらず好きです。

歴史は人間関係がつくる。だから勝者の記録である文字記録はあてにならず、正史は正しい歴史とは言えない。しかし、たとえば『日本書紀』の著者が隠蔽したかったことや立場的に主張しなければならなかったことを考えれば、歴史の謎がいくらかはわかるのではないか?

と、だいたいこんな内容の本です。本の後半、三分の一が用語解説や参考文献なので、古代史のガイドになってます。天皇にかんして、網野善彦『無縁・公界・楽』と今谷明『室町の王権』の宿命の対決をわかりやすく解説しているところがおもしろかったです。

著者自身の仮説・私見は、禁句である「○○にちがいない」と「○○が偶然とは思えない」の連発で、ちょっといただけません。どんな分野でも、おもしろい説をぶち上げる作家的な人と、地味な研究でわかったことだけをたんたんと書く学者的な人のふたつのタイプがいるもんですね。この著者は明らかに前者と言えるでしょう。ウサギとカメで言えばウサギ。

ただし古代史では不確かなことが多いため、ウサギ(想像力)がカメ(立証)より先を行くこともままありますから、いちがいにダメと決めつけるわけではありません。要は、楽しく読めたら勝ち、です。

伊勢神宮は、内宮では天照大神を、外宮では豊受大神を祭神としています。天照大神は『日本書紀』で大日孁貴(おおひるめのむち)として登場し、「孁」の字は巫女を意味することから卑弥呼に通じる。豊受大神は「トヨ」の字があることから卑弥呼の後継ぎだった台与に通じる。もしかしたら伊勢神宮は邪馬台国のふたりの女王を祀っているのではないか? しかし「卑弥呼=天照大神」は正史に書かれたのに「台与=豊受大神」が無視されている理由がわからない。

ここから著者は、邪馬台国の場所の特定や、高天原の天孫降臨神話なども引き合いに出して、かなり大きな古代地図を描きます。わたしは「宗像教授かよ!」とツッコミを入れつつ楽しく読みました。

「古代史」謎解きのヒント (講談社+α文庫) 現代語訳 日本書紀 (河出文庫) 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150)) 室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

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ノロウィルスにやられる

前日からお腹の調子が悪かったのですが、朝起きたら腹痛、嘔吐、下痢、微熱。それがまる一日つづきました。いまはケロッと治って元気です。でたらめな生活で免疫力が弱っていたんでしょう。みなさんはお気をつけください。

熱があるとき、からだの芯は寒いのに、布団をかぶっている表面は熱いことがあります。布団を取っちゃいたいほど熱いけど、やっぱり寒い。布団のなかに涼しい空気を入れようと暴れてみたり、布団から足だけ出してみたり。この熱いけど寒い不思議な感覚は嫌いじゃなかったりします。

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アニメ『墓場鬼太郎』を見る

ノイタミナ枠のテレビアニメ『墓場鬼太郎』の第一話を見ました。予想とだいぶちがったのでひょうし抜けしましたが、なかなかおもしろかったです。東映がつちかった技術を使う新番組という位置づけでしょうか。

設定まわりがぬるくなるのは気になりません。ただ、カット割りが早すぎたり、不親切すぎるのは疑問でした。単純な左右の切り返しを避けるコンテは異質な雰囲気をつくっていて良かったと思います。作画もがんばっていましたが、とくに美術がすごかったですね。小林プロの濃い血を感じました。地蔵の頭が良い。

原作の不条理でとぼけた独特の味わいを生かしきれない「もどかしさ」を感じました。のんびり・ぼんやり・とぼけた感じにすると、たんにツメの甘い作品に見えてしまうんですよね。展開のとうとつさや、キャラクターの内面のなさ(ある意味で多様性)をどこまで生かし、どこまで捨てるか。ここらへんのバランスは水木漫画の映像化が抱える大きな問題だと思います。むずかしいですが、がんばってほしい。

仕上げ、撮影のクオリティが下がると見どころを失う危険なつくりなので、画面処理をどこまで保てるかが鍵になりそうです。短いスケジュールでもクオリティを維持できるような標準化・規格化を押しすすめ、いずればその技術を業界全体にばらまいてもらえないかと、ずうずうしくも期待してます。

墓場鬼太郎 第一集 [DVD]

カテゴリー: アニメ