ぼくらは少年演出家
「専門家おやじギャグ」の楽しみ
- 2008-01-30 (水)
- 音楽
わたしは本を読んで「専門家おやじギャグ」が思い浮かんだときがいちばん楽しいかもしれません。
たとえば『考古学の教室』で紹介されていた相沢忠洋さんは、群馬県ではじめて日本の旧石器を発見した人ですが、戦後の貧しい時代に納豆を売り歩いて発掘資金を貯めたそうです。また、ギリシャ神話の都市トロイアを発掘したシュリーマンは貿易で発掘資金を貯めます。
そこで思いついた「専門家おやじギャグ」:
助手「発掘資金が足りなくなりそうです」
教授「きみは納豆を売り歩きなさい。わたしは貿易で一発当ててくる」
はじめて聞いた新入生は笑うかもしれませんが、耳にタコができている助手は「この化石教授は酸性の土に溶けて消えろ!」なんて思ったりする。微笑ましい一場面であります。
『人類進化の700万年』では、インドネシアのフローレス島で、脳の大きさが現生人類の三分の一以下、身長一メートル、体重二十~三十キロの”小型人類”が発見されたことが紹介されていました。「ホモ・フロレシエンス」と名づけられたその人類は、病気ではなく正常な大人でこの小ささだったらしい。
フローレス島ではほかにもステゴドンというすでに絶滅している小型ゾウの化石が見つかっています。そこから導きだされたのは「島嶼化」の可能性。外敵が少ないため身を守る必要がなく、また食料が少ないためエネルギー消費を抑える必要がある島の環境では、動物は小型化する。すなわち「島嶼化」で人類が小さくなったのではないか?
「ホモ・フロレシエンス」の脳は小さいながらも側頭葉が発達していて、火や石器を使っていた。つまり知能の発達は「脳の大型化」だけではなかった、ということが(いろいろな仮説が正しければ)わかります。
そこで思いついた「専門家おやじギャグ」は……ポリティカル・コレクトネスにより婉曲的にしますが:
助手「島の発掘に不必要なものは置いていきましょう」
教授「賛成だ。きみはまずミニモニのCDを鞄から出しなさい」
たぶん、まだわたしが知らないような、その筋だけで通じるようなおやじギャグがたくさんあるんでしょうね。アニメ関係者が電車に乗ると「遠くの山は0.3ミリ/1コマの引きだ」と言ったり、地面に落ちた影を見たら「ダブラシが濃いな」なんて専門家おやじギャグをかましたりします。
三井誠『人類進化の700万年』を読む
三井誠『人類進化の700万年』を読みました。2006年までの発掘・論文から人類進化をたどっていく内容です。教科書で習った「常識」が塗り替えられていく刺激的な読書でした。テレビや新聞で知っていた内容も多かったですが、まとめて読むといっそうおもしろかった。
わたしが教わったころの人類進化は「猿人→原人→旧人→新人」とひとつの人類種がみんなで一直線に進化したことになってました。それがいまの研究によると、たくさんの人類種が生まれては消えて、生き残ったのがわれわれ現生人類(ホモ・サピエンス)なんだそうです。
じゃあじっさいどれくらいの人類種がいたのか? 残念ながら定説はないとのこと。化石のちがいを細かく見て新種をどんどん増やすスプリッター(分離主義者)は20種以上いたと考えているし、細かいちがいは個体差と考えて新種をあまり増やさないランパー(統合主義者)は10種ほどと考えている。
スプリッターからすれば「分類は厳密さを優先するべきだ」。ランパーからすれば「新種だと報道されやすいから細かく分類してるだけだろ」。攻防はいまもつづいているそうです。いずれにしろ少なく見積もっても10種の人類がいた。
いまのところ「多地域進化説」よりは「アフリカ単一起源説」が支持を集めているらしいです。ヨーロッパにいたネアンデルタール人や、東南アジアにいたジャワ原人はわれわれに通じる現生人類ではなく、どこかで絶滅した種だった。北京原人もどこかで絶滅し、本田博太郎さんの健闘むなしく興業的にも失敗したと考えられています。
卵子しか伝えないミトコンドリアの遺伝情報をさかのぼった人類の祖先、いわゆる「ミトコンドリア・イブ」もだいたい二十万~二十五万年前のアフリカにいた女性だったので、調べ方はまだ完璧とは言えないながらも、アフリカ単一起源説を裏づけていますね。わたしたちの祖先はアフリカで生まれた。進化の舞台はアフリカだった。かもしれない。
この本ではほかにも「直立二足歩行」や「脳の大型化」や「出アフリカ」や「言語の使用」について、あれこれの説を論文から引っ張ってきて、説得力のある部分と批判されがちな弱い部分をまんべんなく紹介しています。著者はどれかの説を強く押そうとしてないし、わからないことはわからないと書いてくれるので、安心して読み進められます。
わたしがとくに興味をひかれたのは「音楽の起源」と「ペットの起源」ですね。
「音楽の起源」は三万七千~三万年前にさかのぼります。いま見つかっている最古の楽器は、ドイツ南西部の洞窟で発見された象牙のフルート。それまでに発見されていたフルートは、もともとなかが空洞の水鳥の骨に指でおさえる穴を開ければ完成するものだった。いっぽう象牙のフルートは、まず半分に割って、なかをくり抜いて、空気が漏れないようにまたくっつけて、という手間のかかった一品。
生存に有利だったわけじゃないのに、労力をかけてまで人類は音楽を、芸術をもとめたんですね。なんだか胸が熱くなります。でも、もっと簡単につくれる打楽器、単音の笛が見つかってないのはふしぎです。
「ペットの起源」はネコは約九千五百年前、イヌは約一万五千年前にさかのぼります。地中海のキプロス島で、地位の高い人の墓に石器や装飾品といっしょにネコの骨が見つかる。アフリカ北部に生息するヤマネコで、おそらく穀物をねらうネズミ駆除のために飼いはじめ、だんだん愛着がわいたと考えられています。
イヌは、東アジアの人たちがオオカミを家畜化して狩猟に使ったと考えられていて、だから農業がはじまる前まで起源がさかのぼるんだそうです。きっとペットにしているネコやイヌを食べちゃって叱られる与太郎がいたことでしょう。
この本の第四章では日本人のルーツをさぐります。『考古学の教室』でも読みましたが、酸性の火山灰が多い日本では人骨は溶けて化石に残りにくいそうです。
沖縄は石灰岩の地層が多くて人骨が残りやすいらしく、採石場から約一万八千年前の「港川人」が発掘され、この骨がジャワ島の「ワジャク人」に似ていることから「東南アジア起源説」の証拠になっている。また、縄文人は、彫りの深い顔立ちと小さい歯からやはり「東南アジア起源説」が強かった。
しかし遺伝子研究で縄文人のDNAを調べてみると、均一な集団ではなく二十五のクループにわかれ、グループごとに中国・韓国・モンゴル・ロシアで同じ遺伝情報を持つ人が見つかる。
つまり「南」や「北」や「渡来系」など、いろいろな時代にあちこちから人類が日本列島にやってきて混血をくり返した結果が、いまの日本人につながっているわけですね。
きのうの『考古学の教室』ときょうの『人類進化の700万年』を読んで予習したので、ようやく楽しみにしていたアン・ギボンズ『最初のヒト』を読みはじめます。
『最初のヒト』はもくじを見るかぎり、人類進化と化石ハンターをめぐる内容で、「ルーシー」から「トゥーマイ」までの化石をあつかっています。たぶん情報の広さと量で言えば『人類進化の700万年』のほうが濃いかもしれませんが、化石ハンターのおもしろ話が堪能できればいいなと思ってます。
菊池徹夫『考古学の教室』を読む
菊池徹夫『考古学の教室』を読みました。副題「ゼロからわかるQ&A65」のとおりQ&A形式で考古学のあれこれを解説してく内容です。とてもいい本だったので、図書館レンタルだったんですが購入決定。
この本のあつかう範囲はひじょうに広いです。たとえば遺物研究の型式学的方法・分布論的方法・民俗学的方法・科学的方法ほか、炭素年代測定(C14法)とその問題点、出土品の保存方法、発掘されない植物性日用品、日本で発達した土器の編年法、日本考古学の歩み、考古学の主な研究テーマ、まだ解けない謎、などなど。
けっこう泥臭い、土臭い話も出てきます。資金ぐりの話から、考古学の学問としての価値、2000年に起こった捏造事件のてんまつ、考古学教授の多忙な一年、民間発掘会社による効率至上主義のずさんな仕事ぶり、などなど。どんな業界にも不都合な真実や苦労話があると思うんですが、それを愚痴っぽくならずにわかりやすく書いていきます。
以下、専門的なことは避けて、おもしろかったところを拾っていきます。
明治時代の考古学者・坪井正五郎さんの狂歌はユーモラスでした。
遺跡にてよき物得んとあせるとき 心は石器 胸は土器々々
解説するのも野暮ですが、この石器は「急き立てられる」の「急き」ですね。土器のほうはエスパー魔美の第65話『ドキドキ土器』と同じ。現在ではこのアニメのように一般人が許可なしに発掘することは文化財保護法によって禁じられています。
著者が学生のころのエピソードは笑いました。掘り出した人骨を竹や新聞紙でつつみ電車で運んでいたとき、新聞の破れ目から大腿骨が見えていたらしく乗客に通報されて、駅を降りたとたんに警察に連行された、というお話。著者もおどろいたでしょうが、電車のなかで人骨を見た乗客もさぞかしおどろいたことでしょう。なにごともなく無事に済んだようですが、もし遺物の人骨が折れでもしたら、これがほんとの(以下略)。
考古学の主な論争は、さかんに論争されているポイントだけに、おもしろいネタが転がっていそうです。主なところを拾っていきます。ちなみにこの本ではそれぞれの論争について紹介だけで深く突っこんではいません。
- 土偶、石棒、環状列石、銅鐸、埴輪などの性格や用途について
- 前方後円墳の形はなにをかたどったのか
- 縄文時代の終末年代をめぐるミネルヴァ論争(山内清男と喜田貞吉)
- 炭素年代測定法の信頼性をめぐっての縄文時代実年代論争
- 縄文文化の系譜
- 弥生水稲耕作の伝播ルート
- 三角縁神獣鏡は国産か中国産か
- 日本人の起源・系統論(小金井良精と坪井正五郎のアイヌ・コロボックル論争)
- オホーツク人の系譜(モヨロ貝塚の発掘から)
- 蝦夷アイヌ・非アイヌ論争(古代史と関連)
- ムステリアン論争(F・ボルドとL・ビンフォード)
- ひだびと論争(赤木清による考古学研究の目的論)
- 縄文時代の農耕や階層社会の存否
- 日本列島の中期・前期旧石器文化の存否
- 江上波夫の騎馬民族渡来説をめぐる論争
- 法隆寺の再建・非再建をめぐる論争
ヨーロッパの「実験考古学」は心底すごいと思いました。じっさいに竪穴式住居をつくり、暮らしてみて、やがて朽ちて平地にもどるまでを世代を超えて観察するというもの。わたしたちは百年ほどしか生きられない、死すべき運命をもった人間(あえて宗教用語mortal)だということを誰よりも理解しているのがヨーロッパの考古学者なのかもしれません。
考古学は総合科学だと考えられています。ざっとならべると、地理学、地質学、土壌学、土木工学、測量学、写真術、図学、物理化学、建築史学、動物学、植物学、農学、岩石学、鉱物学、解剖学、生理学、自然人類学、古生物学、化石人類学などの多くの基礎科学が必要で、石室の天井に天文図が見つかれば天文学だって必要になる。そんな考古学者を著者は指揮者にたとえます。
考古学はいわばオーケストラのコンダクター。様々なパートで鳴らされる音を丹念に拾い集めてまとめ上げ、人類史というシンフォニーを再現しようと努めているのです。ただしスコアなしの演奏です。
また、下のような著者の姿勢に共感しました。
とかく考古学は、なぜか難しそうな用語を勝手につくり、しかも仲間うちならともかく、一般市民相手に話す時でも、平気で(中には得意げに)使う人がいます。私も授業で学生にこのことをしばしば注意します。君たちはなるべくごくふつうの表現、できれば中学生でも分かる言葉、基本的には国語辞典にも載っている日本語で語るべきだ、と。
たとえば「柱穴」は口頭で「チューケツ」と言ってもわかりにくいから「柱の穴」に言い換える。「埋土(まいど)」なら「うめつち」のほうがわかりやすいし、「焼土(しょうど)」なら「やけつち」のほうがわかりやすい。土器の「ナデ」や「ハケ」は説明してから使うほうが良い。特殊な業界用語であることをつねに意識することが大切だと語ります。
たまにポストモダ~ンな文章を書く人がいるじゃないですか。建築系都市論の南泰裕『トラヴァース』みたいな(おもしろい本です、念のため)。専門用語なら仕方ないけど造語のくせに説明なしで使う不親切きわまりない文章はポストモダ~ンすぎます。せめてポストモダンぐらいにとどめてもらいたい。
もしかしたらこういう著者の姿勢は、考古学の伝統的な「遺跡の現地説明会」がベースにあるのかもしれません。広く一般に情報公開するという優れた慣行ですが、ほかの学問分野でも同じようなことをやったらいいんじゃないかと思いました。
デボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』を読む(2/2)
(つづき)
パイパー夫人は、ウィリアム・ジェイムズ(ASPR創設者)と奇跡的に出会い、幼くして亡くなった息子ハーマンの名を当てたり、封をされイタリア語で記された手紙をどういう人物が書いたのか当てた。SPRのほかの科学者たちもパイパー夫人の特異な能力にたびたびおどろかされます。
ジェイムズのハーバードの同僚もそのひとり。同僚は、クリスマスに交換した指輪に掘られていた文字を教えてほしいと告げ、パイパー夫人は見事に当てた。しかも、当てたのは何年も前になくした方の指輪だった。教養人にして科学者で心霊主義を信じない同僚も「不思議だということは認める」とジェイムズに手紙を寄こすほどです。
SPR設立から時間はすぎ、科学者たちのなかに亡くなる人が出てきます。ガーニー、シジウィック、マイヤーズが死ぬ。そこで研究者ふたりと霊媒ヴェロール夫人、霊媒パイパー夫人の計四人で死んだ彼らの霊を呼び出す交差通信の実験を行います。
ヴェロール夫人は学者なのでラテン語がわかる。パイパー夫人は小学校しか出てないのでラテン語はわからない。死んだSPRの科学者たちはラテン語がわかる。ガーニー、シジウィック、マイヤーズの霊と交信できるなら、たとえパイパー夫人にラテン語が理解できなくても、彼らにはラテン語の指示が伝わるはずです。
交差通信の手順は次のとおり(わたしがまとめました):
1.SPRの研究者はケンブリッジにいるヴェロール夫人を監視する
2.SPRの研究者はロンドンにいるパイパー夫人を監視する
3.パイパー夫人のトランス状態を待つ
4.パイパー夫人もしくは支配霊にマイヤーズへの「伝言」を頼む
そのさい「伝言」はラテン語で読みあげる
5.合言葉か記号をつけ加えて「伝言」の内容をヴェロール夫人に伝えるよう「依頼」する
そのさい「依頼」はラテン語で読みあげる
パイパー夫人を通じて受けとった「伝言」をマイヤーズの霊は「依頼」どおりにヴェロール夫人へ伝えることができるのか、しかも言語の壁を越えて……という実験ですね。その結果は、もうおわかりでしょうが、ぜひ本書でお読みください。
心霊研究はかなり偏見が強いので、ほかの科学者が疑うことのできない完璧な証拠が必要だったようです。でも、霊媒を通じた交信は気まぐれで、まちがいも多く、うまくいったり、うまくいかなかったりで「再現性」がまるでない。悲しいことに、パイパー夫人は体調を崩したときほど的中率が上がったそうです。
哲学的科学が物理的化学へ移っていく時代だからこそ強く「再現性」がもとめられたのでしょう。SPRは数々の実験結果を持っていたものの、その発表ではかなり困ったようです。でも気体や重力ならともかく、人間のやることに「再現性」をもとめるのは酷と言えます。
物理的科学が生物学的科学へ移ろうとする現代なら、たとえば脳科学や非線形科学のように「再現性」をもとめない方法で心霊研究ができるんじゃないかとわたしは思います。日本でも千里眼事件の二の舞にならないように誠実な研究が行われる日を楽しみに待ちたいです。
デボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』を読む(1/2)
デボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』を読みました。ノンフィクションで題名どおりの内容。いつもならざっと速読しちゃうような本ですが、じっくり味わいました。
名だたる科学者たちが学界の地位を捨ててまで心霊研究にかかわった理由がおもしろかった。
1859年にダーウィン『種の起原』が出版されて、科学と宗教の対立が激しくなります。いまでもつづく「進化論」vs「創造論」ですね。科学が宗教をこてんぱんにやっつけてしまったら、道徳が崩れてしまうのではないか? でも、もし幽霊や死後の世界などが科学的に解明できれば、新しい道徳装置になるかもしれない。ウィリアム・ジェイムズは語ります。
はなはだ見くびられた”心霊主義者”と心霊研究協会が、信仰の新時代をになう団体になるでしょうか? なるのもたしかに妙ですが、ならないと、ほかにその仕事ができる組織はありません。
また、超自然的な力をはじめから考えに入れない機械論では説明できないことがこの世界にはたくさんある。それを解明するのも科学の役割ではないのか?
そんなこんなで1882年にイギリスで心霊現象研究協会(SPR)が設立されます。SPRに入会する理由は科学者ごとにさまざまですが、当時の科学界にはこういう風潮があったんでしょう。
けっこう分厚い本ですが、社会情勢や科学者たちをていねいに描いていきます。
ウィリアム・クルックスは大の女好きだったようです。仲間から美人女性の霊媒のときは客観的に調査をしてないと評価されたり、まわりからクルックスは霊媒と関係をもっている情夫だ、なんて噂が広がったり。クルックスは電子の存在を知らずに「クルックス管」を発明。当時の科学者が電子を知らなかったように、幽霊や超常現象にも知られざる理由があるのかもしれない、と考えた。
エレナー・シジウィックは合理的・科学的な懐疑主義者です。おもしろいのは、なぜ「服の幽霊」が出るのか? という疑問。シャツやスカートにも死後の生があるとは考えにくい。ここらへんは小野不由美『悪霊シリーズ』の読者にはたまらない内容でしょう。
エレナーの考えでは、幽霊が服を着ているのは、話の信憑性にとって表面的にはマイナスである。科学的に辻褄が合わない。だが一方で、なぜこれほど多くの信頼できる目撃者がそれを見ているのか理由がわかれば、そもそも人はなぜ幽霊を見るのか、その理由に近づけるかもしれない。彼女はそう考えていた。
SPRは科学者だけでなく、有名な霊媒やその信奉者、心霊主義者がたくさん在籍していたのですが、エレナーの報告書はそんな人たちを怒らせるほど否定的だったようです。「すぐにいきり立つ人たちには、もううんざり」と言っていた。
マイヤーズは、ひそかにこころを寄せていた人妻アニーが自殺して落ちこむが、ノートルダム寺院近くの汚い路地でふしぎな出来事に会う。客が正しい文字に触れればラップ音が知らせるというアルファベットを記した木札が霊媒によってひとつずつ選ばれ、名前をつづった。アニー・マーシャルの名前を。
ヘンリー・シジウィックは、彼が現れるとラップ音は止まるし霊は消えてしまう。観察に何時間かけても何も起こらない最悪の心霊研究者だった。
悪いのは自分だ、とシジウィックは日記に書いた。自分には仲間の研究者のような能力に欠けている。エレナーにはもっと観察者の才能があるし、マイヤーズはもっとねばり強いし、ガーニーはもっと判断が的確だ。みんなが自分より魅力的な仕事をするのも不思議はない。
だがシジウィックにも、役立ちそうな長所はいくつかあった。彼はそれも書き出している。自分は正義を信じている。公正な心を持っている。人の話をよく聞く。それに、仲間たちを見渡してみて、もうひとつの才能にも気づいた。優秀な人材を集める才能である。
こういうダメだと思っていた自分の才能に気づくパターンはいいですね。わたしは『ガンバの冒険』のみんなが代わりばんこでリーダーを務める回を思い出して、ぐっときてしまいました。
そんなシジウィックに見いだされた人物、リチャード・ホジソンは、大柄でたくましく、陽気な皮肉屋で、ワーズワースと詩を愛し、生活の習慣をきちんと守る(就寝時間や食べものなど細かい)、生れながらの研究者だった。ホジソンは死んだあとにも霊媒を通じて会話したりと大活躍です。
アメリカ心霊現象研究協会(ASPR)の会長サイモン・ニューカムは、イギリスSPRの情報収集――噂を集めたり、新聞に広告をのせて一般人に超常体験を書かせたり――が科学的方法とは思えず、いきなり米英のSPRは対立します。イギリスSPRのエドマンド・ガーニーはそれに対抗してこう言う。
なんらかの価値があるのは、善意で寄せられた事例の五パーセントぐらいでしょう。でも、残りの九十五パーセントにも身をさらさなければ、その五パーセントはけっして手に入らないのです。
SPRの活動はマダム・ブラヴァツキーなどの霊媒師のいんちきを見事に暴いていきますが、しかし五パーセントの真実は残った。それが霊媒レオノーラ・パイパーです。パイパー夫人のサイコメトリーや自動筆記はいんちきやトリックが見つからず、しかも研究すればするほど常識を超えた能力に科学者はうろたえます。
(つづく)
チーズケーキ番長がゆく! 宇田川カフェ、PRONTO、可否茶館
- 2008-01-25 (金)
- 食べもの

渋谷の宇田川カフェでチーズケーキを食べました。濃厚なレアチーズ、下にさくさくのタルト生地、そしてブルーベリーソース。定番の組み合わせでおいしかったです。夜に撮ったので写真が汚くてすいません。渋谷は夜になると急に食べる場所に困る街なので、宇田川カフェはとてもありがたいですね。

PRONTOでニューヨーク・チーズケーキを食べました。実にふつう(ほめてます)でおいしかったです。強烈な個性はないですが、だからこそ毎日食べても飽きない味と思います。えー、短いですが以上。この写真はGR DIGITALで撮りました。

阿佐ヶ谷の可否茶館でレア・チーズケーキを食べました。ほんのりヨーグルト風味の珍しい味わい。チーズっぽさはほとんどありませんが、甘さひかえめでおいしかった。はじめて可否茶館に行ったのですが、コーヒーや食べものはおいしいし、空いてるし、夜遅くまでやってるし、けっこう穴場かもしれません。
こうチーズケーキを食べ慣れてくると、やっぱり際立った個性がほしくなります。そろそろ番長はイート・インできるお店ではなく、通販を使う時期が来たのかもしれません。さしあたって、にちゃんねるチーズケーキ・スレッドではおなじみ、濃厚系最右翼トロイカを注文しようかと思ってます……お金があるときに。こうご期待。
丹野顕『江戸の色ごと仕置帳』を読む
- 2008-01-24 (木)
- 書籍
丹野顕『江戸の色ごと仕置帳』を読みました。不倫、レイプ、売春、心中などの「色ごと」犯罪を江戸時代の奉行がどんなふうに裁いたか、裁判記録から見ていこうという本です。おもしろかった。
裁判記録から浮かび上がってくるのは封建制や家父長制などの政治・思想にゆれる人々のいとなみでした。とにかく女性のあつかわれ方があんまりでおどろきます。フェミニストの方は「男尊女卑の政治がいかにひどかったか」の実例集として読むのも一興でしょう。
密通はいまふうに言えば不倫ですが、現代よりも意味が広くて、結婚するつもりの若い男女が親に隠れて愛し合うこともふくまれます。そして密通のほとんどは、死刑、追放刑、磔(はりつけ)、獄門とへヴィーな刑に処される。のんきに「不倫は文化」なんて言ってられません。
美人で評判だった白子屋のおくまは、世間ではふつう持参金を持たせて嫁入りさせるところを逆に持参金つきの婿入り話があった。しかし婿養子になった又四郎は実直でおもしろみに欠ける人物だった。おくまはかねてから恋仲だった忠八と不倫をつづけ、白子屋の人たちも又四郎を邪魔者あつかいした。
おくまの方から離婚を申し入れると持参金をそっくり返さなければならない。そこで白子屋の人たちは又四郎の膳に毒を盛ったり、下女との心中をよそおって殺そうとした。からくも逃げのびた又四郎は南町奉行大岡忠相に訴え出る。白子屋の人たちや忠八は刑に処され、おくまは町中引廻しの上、死罪となった。
ところが大岡裁きとは別に『恋娘昔八丈』で、おくまは悲劇のヒロインとして人気者になる。
白子屋おくまは彼女の密通自体も庶民の間では美化された。殺されかけた実直者の夫には同情は集まらず、「毒婦」とよばれながらも、好きな男へ献身して処刑されたおくまが憧憬された。こうした背景には、愛し合った者同士がなかなか結婚できない江戸時代の結婚事情が厳然としてあったからである。
レイプでは「幼女姦」をのぞいて多くの場合が軽罪だったらしいです。同じように男尊女卑が理由のひとつではありますが、「レイプで女がいい目にあわされた」なんて意味をふくませた川柳(=世論)が残ってもいる。裁判記録に残っているのは泣き寝入りできなかったケースばかり。さすがに読みながら、うげげ、となりました。
ほかには、私娼の発生から吉原や夜鷹の歴史、心中ブームが起こって幕府は「心中」とは言わず「相対死」と呼ぶようにお触れを出したり、僧侶を悩ませた「女犯」と極刑、などなどが書いてあります。でも実は、おもしろいのはDV(ドメスティック・バイオレンス)について書いた最終章です。
江戸時代は、男尊女卑が支配する封建的な倫理観と法律にしたがっているため、DVのトラブルは日常的によく起っていた。がしかし、それが日常風景だからこそ、公的な裁判記録にはほとんど書かれていない(!)。
つまり、ここまで読んできた裁判記録にもそのような記録に残されない「事情」や「風景」や「空気」があったということです。最後のどんでん返し。あらためて最初から読み返したくなる最終章だと思いました。
山倉慎二『内科医からみた動物たち』を読む
山倉慎二『内科医からみた動物たち』を読みました。Discovery Channelとかが好きな人におすすめの動物本です。動物園に持っていきたい一冊。おもしろかった。
キリンは長い首の先まで血液を送るために最高血圧が200~300mmHgある! もう、のっけからこころを鷲づかみにされましたね。これだけ血圧が高いと脚などはむくんでくるはずですが、キリンの皮膚は厚くごっつくなっていてぴったりからだを覆っているから、むくんだりしない。へー。
『アイアイ』というかわいらしい歌に登場するアイアイではあるが、実はとてもサルの仲間とは思えない不気味な姿をしている。(略)その奇怪な姿ゆえ、島の住人には「見つけたらすぐに殺さないと悪いことがおこる」といわれるくらい忌み嫌われていて、そのために絶滅の危機に瀕しているという。どうしてあんなかわいい歌になったのか。
だいたいはこんなトリヴィアルな話が多いんですが、やっぱり動物本といえば「速!」「デカ!」でしょう。
動物界の俊足といえばチーター。時速100~120kmで、止まった状態から走りはじめても100メートルを4秒でゴールします。ただし200メートルで体力を使い果たしてしまうので狩りの成功率は高くない。チーターはネコ科なのに幼少期にしか爪をひっこめることができず、イヌ科に近いと言われます。
プロングホーンはMAX時速96kmで走るうえに、時速70kmほどにセーブすれば6~7キロを走りつづける、総合力ではチーターに勝るすごいやつです。でも、動くものを調べたがる習性のせいで、旗を振った人に近づいてはばんばん狩られてしまった。頭は悪いなあ(人間基準で言えば)。
一種で一属、一科、一目を構成する珍しい動物のツチブタは、固い地面でも2~3分で穴を掘って隠れるそうです。こういう動画がYoutubeにアップされるような時代が早く来てほしいものですね。どうでもいいですが、ツチブタ – Wikipediaの寝てる画像が超かわいい。
200万年前、アメリカ大陸にはメガテリウム(オオナマケモノ)が生息していたそうです。体長4~6メートル、体重3~5トン。二本脚で立ち上がるとゾウの体高の2倍。ああ、凶暴化したメガテリウムが渋谷の街をぶっこわし、東京タワーにしがみついてのんびりしている映像が見たい。(Wikipediaによると、全長6~8m、体重3トン、体が重たいので木には登らないそうです。がっかり)。
イノシシそっくりのペッカリーは100頭を超える群れで生活していて、特にリーダーは決まっていない。ジャガーやピューマに襲われると見張り役の一頭が犠牲になって立ち向かい、ほかのものを逃がす。この人間にとって利他的とも感じられる行動は、なかなかおもしろいですね。神話などのネタになってそうです。
ややこしいことでおなじみの動物分類は:
種(species)
属(genus)
族(tribe)
科(family)
目(order)
区(cohort)
綱(class)
門(phylum)
界(kingdom)
で、さらに詳しく分けたいときは上、亜、下をつける。たとえばグランドガゼルなら:
脊椎動物門、哺乳動物綱、獣亜綱、真獣下綱、猛獣有蹄区、側軸上目、偶蹄目、反芻亜目、ウシ下目、ウシ科、ブラックバック亜科、ブラックバック族、ガゼル属、ダマガゼル亜属、グランドガゼル
となるそうです。ここまで長いと極道が仁義を切ってるみたいですね。おひかえくだすって、ありがとうござんす、手前、脊椎動物門、哺乳動物綱、獣亜綱…(略)…グランドガゼルと発します、以後、万事万端よろしくお願い申します。
「内科医からみた」というタイトルなので、動物のおもしろ話にからめて医学ネタがはさまれます。睡眠、肥満、出産、乳児の突然死、HIVやインフルエンザ、人間中心主義への危惧など。科学ネタは、ラマルクの用不用説、ダーウィンの自然選択説、フリースの突然変異説など、おなじみの話題が多かったです。
まだインターネットが発達する前、わたしが小学校から中学生くらいのころにこういう本に出会いたかった、と思いました。
くり返しますが、ツチブタ – Wikipediaの寝てる画像が超かわいい。
B.R.アンベードカル『ブッダとそのダンマ』を読む
B.R.アンベードカル『ブッダとそのダンマ』を読みました。熱い宗教書です。おもしろかった。
いきなり、ゴータマ・ブッダの出家はコーリヤ国とシャカ族の内紛のごたごたに巻きこまれたことが理由だった、という創作小説からはじまります。わたしは度肝を抜かれましたよ。だって仏伝の「書き換え」を行っているのだから。
ほかにもブッダが説いたあれこれが、ことごとく現代的・科学的に「書き換え」られていきます。たとえばカルマ論について、仏教は、ブラーミズムとヒンドゥーイズムとはちがうと主張されます。両者のカルマ論を同一視してはいけない、と。
ブッダの前世カルマ論は科学的である。彼は前世カルマの遺伝性など信じなかった。誕生は発生学的であり、子供の受ける遺伝は総てその両親から受け継ぐと考えていたブッダにそんなことがどうして信じられよう。
さらに。
前世カルマが来世を支配するというヒンズー教義は正に邪悪なものである。このような教義を作り上げた目的は何であったのか。考えられる唯一の目的は、国あるいは社会が貧しく身分の低い人びとの悲惨な状態に対し責任逃れするためである。(略)大慈悲の人として世に遍く知られるブッダがこのような教義を擁護したなど想像することすらできない。
ここまでくると痛快で、わたしは「もっとやれ!」と思いました。もちろん、いたずらに「書き換え」るばかりじゃなくて、仏典をきちんと読みこんだ引用もほどこされます。仏教が神の存在を否定したというのは、おそらく行きすぎですけども、霊魂を否定する(あるいは霊魂について語らなかった)のはそのままです。
アンベードカルは、ヒンドゥー教は迷信と不合理に満ちていて現代科学の批判に耐えられない、いまこそ合理性をもった仏教がインド国家と宗教を救うのだ! と言います。ブッダは道徳性の確立と、平等社会の実現を目指し、サンガ(修行者の集まり)は理想社会のモデルであり、ビク(修行者)は理想社会建設の奉仕者である、うんぬん。ヒンドゥー教の破棄、下層不可触民の地位向上を目的として、仏教をパワフルに「書き換え」てゆく。
『捏造された聖書』を読んだばかりで言うのもなんですが、宗教ってむかしの形のままでは使い勝手が悪いんですよね。現代に通じるようにするためにはアレンジするしかない。だから「書き換え」る、いまのインドを救うために! 宗教は、まさに、ここにある。そう思います。
アーリア・ナーガルジュナこと佐々井秀嶺さんの巻末コメントも熱かった。2004年に「この義いかん!!」なんて書く日本人はこの人をおいてほかにないでしょう。わたしはテレビで『NONFIX 男一代菩薩道~インド仏教の頂点に立つ男~』を見て以来のファンです。
いかにインド民衆、いかにインド仏教徒下層民衆をして、創価学会に入り、いかに日蓮宗、天台宗、真宗、禅宗、天理教、霊友会等々に走り入信するも、その全インド仏教徒の中心的生命は、不動像、不屈像、不退像のビーム・アンベードカル大菩薩であり、その全生涯にわたる思想行動であり、その大蔵経に匹敵する一切著書であり、その最勝最大のバイブルは『ブッダとそのダンマ』であるということを忘却することなかれ!!
下手にさわると火傷しそうなくらいの絶賛です。でも、インド下層民の悲惨な事情を知っていると、佐々井秀嶺さんはこれでも抑え気味なんだとわかります。
バート・D. アーマン『捏造された聖書』を読む(2/2)
(つづき)
では本文批判はどうやって改竄を見抜くのか? その方法がおもしろかったので、歴史的なこともふくめてざっとまとめてみます。
ユダヤ・キリスト教は書物の宗教としてスタートした。しかし聖書は識字率の低さと雑な手作業のせいでとんでもないミスだらけになり、くわえて解釈の多様性から改竄だらけになる。識字率が上がり、プロの書記があらわれ、印刷できるようになって、エラーたっぷりの聖書が大量に出まわることになり、現在にいたる。
本文批判はエラーを「外的証拠」と「内的証拠」にわける。
外的証拠は写本そのものを調べる。異文Aの書かれた写本が50冊見つかり、異文Bの書かれた写本が1冊しか見つからなくても、多数決にはならない。写本の数よりは、写本の年代や、底本が古いほうをオリジナルに近いと考える。しかし古ければよいわけではなく、最初期のテキスト伝承は質的にひどかったので、絶対的な基準にはできない。あくまで内容から合理的な取捨選択をおこなう。
異文の地理的な分布もある。地方で見つかる異文より、広範囲で見つかる異文がオリジナルに近いと考える。オリジナルと判断される文はふつう最良の写本グループから見つかる。写本グループには、ビザンチン・テキスト、西方テキスト、アレキサンドリア・テキスト(中立テキストをふくむ)がある。
内的証拠はテキストの内容を調べる。たとえば著者の文体・語彙・神学から、いかにも改竄しそうなところをさぐる。ある異文が著者の書いたそれまでの文と似ている場合は、改竄である可能性が高い。反対に、著者の書いたそれまでの文とちがっている場合は、改竄である可能性は低くなり、オリジナルに近いと考える。
書記がいかにもしそうな改竄もさぐる。たとえば書記はテキストの誤りや矛盾や神学を自分の思ったとおりに直す。ふつう改竄は、わかりにくい文をわかりやすい文に書き換えるもので、わかりやすい文をわかりにくい文にわざわざ書き換えたりはしない。だからベンゲルの「より理解困難な文こそがオリジナルに近い」という考え方が一般的になる。
以上の方法でたんねんに調べても、学者によって下す結論はさまざま。オリジナル・テキストの確定はむずかしいが、それが聖書の理解におよぼす影響は無視できない。








