宗教 Archive

twitter-log 釈尊はなぜ右脇から生まれたのか

  • 2008/12/03
    「時は四月八日 清和の気調適す 斎戒して浄徳を修し 菩薩は右脇より生まれぬ」これは梵語『ブッダチャリタ』の漢訳『仏所行讃』を読み下したもの。釈尊は母である摩耶の右脇から生まれたと書かれている。一般人とちがう徳の高さを表現したんだろうと思うが、なぜ膣ではなく右脇なのか。
  • 2008/12/03
    修行者はセックスしてはいけない。でも歴史から明らかなように人は欲望に勝てない。そこで、修行者はスマタに似た行為を脇でやってたんじゃないかと思った。その経験から、釈尊が右脇から生まれた伝説をつくったんじゃないか、と。聖人を語るのに下品な話で申し訳ないが、私には信仰心がないので……。

補足:ひどい下ネタの後でなんですが、平川彰『仏陀の生涯―『仏所行讃』を読む』はいい本だと思います。

仏陀の生涯―『仏所行讃』を読む (新・興福寺仏教文化講座)

twitter-log アクィナス=プラトン+アリストテレス

補足:以下はすべてhttp://twitter.com/kimarxへの返答。哲学を宗教学でまぜかえした。

  • 2008/12/15
    @kimarx 少しずれた返答になりそうですが、書いてみます。時代順に話を進めます。古代ギリシアのディオニュソスの密儀、オルフェウス教、ピュタゴラス教団などは、人と神の「一体化」を求める神秘主義でした。プラトンはこの影響を受け、さらにプロティノスの新プラトン主義に受け継がれます。
  • 2008/12/15
    @kimarx 新プラトン主義では、万物は一者から流出して、再び一者へと帰り「一体化」すると説きます。旧約聖書では神と被造物(人間など)の間には絶対的な断絶がありますから「一体化」などは考えられません。しかし新約聖書の時代になるとパウロやヨハネなどで「一体化」が書かれはじめます。
  • 2008/12/15
    @kimarx この人と神の「一体化」を求める神秘主義はアクィナスに受け継がれます。『神学大全』第三章では、人間キリストは信仰者にとっての神との「一体化」への道であると説きます。ご質問にあった、アクィナスが人間としてのイエスを強調する理由は、この「一体化」の影響が考えられます。
  • 2008/12/15
    @kimarx アクィナスは神学とアリストテレス哲学を統合したことで有名ですが、著書のかなり重要なところで非常にプラトン・新プラトン的です。以上の「一体化」もそうですが、アクィナスは神の実在を証明するところで「不完全な現実世界の雛型である創造主=イデア」のように考えています。
  • 2008/12/15
    @kimarx プラトンとアリストテレスの中間にいる人物として、アクィナスは面白いと私は思います。おそらくアクィナスは二人の哲学のいいとこ取りをしたので conflict しなかったんでしょうw。プラトンとアリストテレスのちがいを考える上では、参考になると思います。
  • 2008/12/15
    @kimarx プラトンがイデアを主張したのはギリシアの社会的変動が原因だと私は思います(反論されそうですがw)。主に戦争、人口の増加、脱宗教化などによる社会的な混乱を抑えるために、絶対的普遍を主張したのだと。これは宗教学的によくあることなのでプラトンだけ例外とは考えられません。
  • 2008/12/15
    @kimarx アクィナスも同じように、戦争(十字軍)、人口の増加、脱宗教化などによる社会的な混乱を経験しています。もしかしたら彼がプラトン的な絶対的普遍を取り入れたのは、このような社会的変動が原因かもしれません。ふとそんなことを思いました。
  • 2008/12/15
    @kimarx あー、やっぱり長文になってしまいましたw。ヘーゲルについても書きたいことはあるんですが、アクィナス「人間キリスト」とヘーゲル左派の分裂には、おっしゃるように、似たような関係を感じますね。すいません、以上で終わります。

twitter-log 新スコラ学の構想についての対話

補足:以下はすべてhttp://twitter.com/konatyanへの返答。神学を宗教学でまぜかえした。

  • 2008/09/08
    @konatyan 中世後期アリストテレス哲学の神学は、アクィナスとスコトゥスで途切れてヘーゲルまで空白だと思う。ヘーゲルの思想は欧州近代精神史の影響すなわち啓蒙主義→情感主義→ロマン主義自然哲学の流れ、カント道徳宗教論、ヘン・カイ・パンなどを経て完成したと研究者は書いている。
  • 2008/09/08
    @konatyan 詳しくは上田閑照『ドイツ神秘主義研究』や藤田正勝『若きヘーゲル』を参照のこと。新スコラ学の構想はプロティノス、アウグスティヌス、カント、バルトあたりで対比&相補完すべきだけど、いずれにしろひとりで抱える作業量ではないと思うよ。ダニエル第12章を願うけれども。
  • 2008/09/08
    @konatyan 神学を学問的に扱うなら新プラトン主義は避けられぬ。信仰を理性で語り得るかという知的冒険ならその限りではないが「信仰を権威づけしただけ」という批判を免れぬ。これはドSじゃなくてマタイ7:13と思ってほしいw。無学なアニメーターにつっこまれるくらいじゃダメよ、と。
  • 2008/09/08
    @konatyan どの宗教でも合理vs神秘はある。「アウグスティヌスvsアクィナス」は、仏教「龍樹vs説一切有部」、イスラーム「ムウタジラ派vsスーフィーズム」に似てる。もし中村元『龍樹』を読んで説一切有部を擁護できたらプロティノスを倒せるかも(宗教学ジョークだから話半分にw)

twitter-log 文化人類学など

  • 2008/05/05
    山が他界の象徴となり聖性とタブーを持つ山岳信仰は世界中にあるが、山のない平原のアフリカではブッシュ(叢林)が似たような象徴であったという。ブッシュには獣が住み、神秘的な薬草が生え、悪霊・妖精・亡霊が出る。地理的な信仰は文化によって相対的であるらしい。
  • 2008/06/22
    ジーンズのLevi Strauss(リーバイ・ストラウス)を文化人類学者のLevi-Strauss(レヴィ=ストロース)に空目。するわけがないし、同じだった。
  • 2008/06/28
    古代エジプト人は、天国や地獄、死者の再生を素朴に信じていたわけではない。墓荒し、葬儀屋の偽ミイラづくりがいい例だろう。盲目の竪琴弾きが残した言葉に、こんなものがある:思う存分、人生を楽しむとよい。あの世へ財産は持って行けない。あの世へ行ったら二度と戻ってこられないのだから。
  • 2008/07/01
    北アメリカのアラパホ族は、月経の血が固まって胎児になると信じていた。また、太陽の舞踏(祭礼)の最後には、胸に太陽を象徴するマークを書き、飲食を絶っていた執行者たちに月経の血を象徴する「芳しい水」が配られる。アラパホ族の神話の中で月経は月の満ち欠けと関係づけられている。
  • 2008/07/05
    非モテが幾多の困難を乗り越えて念願のセックスを手に入れたら、意外にたいしたことではなく「オレが追っていたのは結局、夢だったんだ」と気づくのは、通過儀礼型の神話でよくあるパターン。
  • 2008/07/05
    そういった通過儀礼を経ないと参入できない共同体や価値観は現代では薄れているから「産道をぶじに通れただけで、めっけもの」でいいような気もする。
  • 2008/07/30
    高級遊女・花魁が何度も面通ししないとやらせない理由は、男をじらすテクニックとよく言われるけど、むしろ避妊方法の少なかった時代のリスク管理と、生理中でも仕事をするための健康管理が大きかったんじゃないかと思った。
  • 2008/08/10
    紀元前700年ごろのギリシアでは太陽に近い立小便は神への冒涜だった。その禁忌に反対した哲学者ヘシオドスが「立小便は冒涜ではないが紳士はしゃがんでせよ」と説いた。3世紀後のヘロドトスの時代には立小便がふつうになり、彼はエジプト見聞録で男性がしゃがんで放尿する姿を見て逆に驚いている。
  • 2008/08/10
    そのヘロドトスが驚いたエジプトのしゃがみ小便はのちに伝播して、イスラーム、ヒンズー教、仏教に影響を与えた。現在でも宗教的に立小便が禁忌になっている地域はかなり多い。排泄はきわめて宗教的な行為と言える。
  • 2008/09/27
    記紀神話のヤマタノオロチ退治は「クシ」という古代音韻をもとに物語がつくられたらしい。クシナダヒメの「串・櫛」、オロチが飲む「酒(クシ)」、尾から大刀が出るふしぎ「奇し」など。このことから、記紀神話ははじめから書物に記された神話ではなく、語り継がれて完成した神話と推測されている。
  • 2008/11/19
    名著『インド神話 マハーバーラタの神々(ちくま学芸文庫)』のあとがきで闘病について書かれていたが、この三ヶ月後に著者の上村勝彦さんが亡くなっていたことを知った。誰か『マハーバーラタ』の翻訳を引き継いでいるのだろうか。
  • 2008/11/29
    『残酷な天使のテーゼ』の歌詞を仏訳して読ませたら、レヴィ=ストロースは日本はおもしろい国だなーなんて言うと思う。

インド神話―マハーバーラタの神々 (ちくま学芸文庫)

twitter-log レディオヘッドと禅

  • 2008/10/02
    レディオヘッドの”high and dry”の歌詞は、抽象的で直訳すらしにくいが、読んでいてふと禅文化の影響を感じた。
  • 2008/10/02
    歌詞の前半は「jump=魔境(偽りの悟り)」でうぬぼれるな、「kill yourself=悟り」たいという欲望が逆に悟りを遠ざけるのだ、というお定まりの禅師の説法。まるで臨済か道元か。
  • 2008/10/02
    禅師の方法論は次の3つ。
  • 2008/10/02
    (1)「broke mirror=破鏡=迷妄が消えること」で、あなたはあなたではない何かに変わる。
  • 2008/10/02
    (2)「conversation=公案」を通して「Drying up=雑念が払われ」、あなたはあなた自身と会話のできない者になる。言葉ではない、不立文字、直指人心である。
  • 2008/10/02
    (3)そうすれば、あなたの内部すべてが「fall to pieces=ばらばらに砕け」、あなたはただそこに座り、静かな make love をしたい願うだろう。この make love はセックスではなく道元の「愛語」と解したい。
  • 2008/10/02
    歌詞の後半は魔境(偽りの悟り)の世界はいかにひどいか、という説法。
  • 2008/10/02
    大悟は「got the world all sussed out=世界のすべてを突きとめる」の世界だ。しかし魔境であれば、憎悪とツバを吐きかけられて、あなたは叫び声を上げるようになるだろう。
  • 2008/10/02
    せっかく手に入れた「the best thing=大悟」、常に持っていたはずのものは「gone away=消え去る」のみ。
  • 2008/10/02
    high であってはならぬ。しかし dry であってもならぬ。その中間にいるべし。こう書くと禅というよりはカスタネダみたいだ。タイトルの「high and dry=見捨てる」は禅的に「放下」と解したい。

補足:ここではかなり強引に解釈したが、Radioheadに禅文化の影響は少なからずあると思う。

High & Dry

twitter-log 出家とエートスと禅宗

  • 2008/07/04
    教団としての宗教はより初期であるほど出家をすすめる。仏教はおなじみでよく知られているが、イエスも頻繁に出家をすすめている(マルコ3:21, マタイ8:18,10:35,12:46, ルカ8:19,9:61,11:27,12:52,14:26)。
  • 2008/07/04
    これは前に書いたが、最古の宗教である「家」から離れないと純度の高い宗教性が発揮できないからだ。同じような理由で、ある種のシャーマンも家から離れ、丁稚奉公のように専門性を身につける。いわゆる「巫」に処女性をもとめるのも同じ根を持つと考えられる。
  • 2008/07/04
    以上は、宗教をエートスと定義した場合の話。面白いことに、この定義によると禅宗は「宗教ではない」。人為的な習慣・認識を超える、すなわちエートスの超越が禅宗の目的だからだ。
  • 2008/07/04
    京極夏彦が『鉄鼠の檻』で「禅は宗教と言えるのか?」と問いかける理由がここにある。もちろん伽藍から飛び出したラディカルな禅坊主のみがこれに当てはまる。
  • 2008/07/04
    ラディカルな禅坊主は、たとえば唐栄の純粋禅でいうと臨済、楊岐、松源、虚堂あたり。日本では大応、大燈、徹翁、言外、華叟あたりか。この流れから一休、良寛も出てくる。
  • 2008/04/01
    仏教でもとりわけ禅宗は、社会化された人間を再び自然の中に位置づける試みであるのにたいし、オタク道は社会化された人間をあえて虚構の中に位置づける試みである。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

twitter-log Gate, Gate

  • 2008/09/18
    朝から聴いている http://tinyurl.com/4nfebe この曲ははじめて知った。“Gate”はゲートではなく羯諦すなわち般若心経。google検索したが、誤字が多いなど完全な歌詞が見つからず自分で聴き書きした。この「羯諦羯諦、ハレルヤ!」の奇妙な魅力にしびれる。
  • 2008/09/18
    歌詞の cross the river はパーリ文『律蔵』の釈尊がガンジス川を飛び越える逸話を思わせる。cross into the light は「自灯明・法灯明」みたいだ。しかし cross が十字架を連想させ、hallelujah がヘブライ語と主を連想させる。ごった煮だ。

twitter-log ラツィンガー『ナザレのイエス』

  • 2009/07/09
    ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー『ナザレのイエス』は、現代に生きるキリスト教徒、特にカトリック系は必読の一冊。プロテスタント系の方は激怒しそうだが読む価値はある。信仰はないものの宗教学の好きな(私のような)方にもおすすめ。ただし聖書学・神学をある程度かじっておく必要はある。
  • 2009/07/09
    私が驚いたのはヨハネ福音書のところ。アンリ・ガゼルの説――神殿破壊以前の祭司職は交代制なので、任期のあとは他の職につく、すなわち片田舎ガラリヤの猟師ゼベダイの子ヨハネが祭司貴族階級の知識を持ち、福音史家である可能性は充分にある――を出すあたりがクライマックスだと思った。
  • 2009/07/09
    『ナザレのイエス』は以上のような面白い学説はたくさん登場するし、現代の聖書解釈学をふまえて書くと宣言しているが、やはり基本的には信仰の書である。ブルトマンをバッサリ批判しているくだりは笑える。おいおいと思うところもあったが、宗教者はこうでなければならない、とも思った。おすすめ。

補足:ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー『ナザレのイエス』は、近代的な批判的・歴史的研究方法をふまえつつ「福音書のイエス=歴史のイエス(史的イエス)であると論証する。ラツィンガーが語の象徴性について語るところは、信仰のない私にはよくわからなかったが、そのわからなさをふくめて刺激的な読書体験だった。

ナザレのイエス

twitter-log 中井久夫の「治療者としてのイエス」と釈尊

  • 2008/06/30
    中井久夫の「治療者としてのイエス」では(1)鋭敏なセンサーである足を洗うこと(2)聴く態度を示しつつ問う者に再考と鎮静をさそう地面に字を書くこと(3)脈拍の同調などの交感である手を触れること、のみっつが挙げられている。とても興味深いが、では釈迦はどうであったか?
  • 2008/06/30
    「治療者としてのイエス」をもとに、ざっとパーリ経蔵などを読み返したたところ、釈迦も(1)と(3)に関しては同じような行為がすぐに見つかった。しかし(2)に近いものは残念ながら見当たらなかった。
  • 2008/06/30
    聖書と仏典では書き方や編集方針がちがうので比較は容易ではないが、「治療者としての釈迦」という見方で仏典を読み返してみるのもなかなか面白い。
  • 2008/06/30
    初期仏教の資料、アーガマ文献には、たくさんの釈迦の発言が記されているが、細かな行為・行動はほとんど書かれていない。「治療者としての釈迦」という見方で読んでもイエスほど実りが少ないのはそのためだ。これは釈迦入滅から経典編纂までの大きなタイムラグが原因と考えられている。
  • 2008/06/30
    時間とともに細かな行為・行動が消えてしまったため、釈迦や弟子たちの描写は型どおりをなぞることが多い。たとえば座る釈迦の前で頭をたれ、言葉を聞く、というスタイルがよく見られる。
  • 2008/07/02
    物語としての聖書つづき:中井久夫の言う(2)は『ヨハネによる福音書(7:53)』にある。しかしここは聖書学では写本をした書記が勝手に書いた改竄だと判明した。つまり史的イエスとは無関係。物語に優れた治療的行為を読むことはかまわないが、天才・中井久夫でもこういうことはありえる。
  • 2008/07/02
    実りは少ないが「治療者としての釈迦」の話。『サンユッタ・ニカーヤII』はパターナリズムを考えさせる。修行に悩んだゴーディカは自殺をはかる。悪魔は止めるが、釈迦は自殺を認め、ゴーディカは死んで涅槃に入ったと語る。この悪魔は、バラモンや世俗主義的な人々ぐらいの意味だろう(宮元啓一)。

補足:中井久夫の「治療者としてのイエス」は、『治療文化論―精神医学的再構築の試み』に収録されている。

治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)

twitter-log 映画『コッポラの胡蝶の夢』とミルチャ・エリアーデの生涯

  • 2008/09/04
    映画『コッポラの胡蝶の夢』を見た。まちがいなく最高傑作だ。ポニョ、スカイクロラ、ダークナイト、インディ、すべて吹き飛んだ。
  • 2008/09/04
    ヌミノーゼ(オットー)、ヒエロファニー(エリアーデ)、二真理説(チャンドラキールティ)、万物斉同(荘子)、シャマニズム、憑依、輪廻、四刀論法、アフロ・アジア語族、セム語族、ベルイマン、エリセ、ドライヤー、ブニュエル、ゴダール……ひとつでも気になったら『コッポラの胡蝶の夢』は必見。
  • 2008/09/04
    そうか。書いていてわかったが、『コッポラの胡蝶の夢』は、私のためにつくられたような映画だ。画面から言葉を超えた情報が、表現が、あますところなく伝わってくるその官能にただひたすら溺れた。http://www.kochou-movie.jp/index_r.html
  • 2008/09/04
    原作の「若さなき若さ」は『エリアーデ幻想小説全集第3巻』に収録されている。短い短編なので読んでから映画を見ると理解しやすいし、いままでの延長線上にありながら新機軸でもあるコッポラの官能的な演出すなわち「ずれた鏡像」の充実ぶりがよくわかると思う。

補足:あまり評判になっていないのが悲しい。面白い映画だと思う。
コッポラの胡蝶の夢 スペシャル・エディション(2枚組) [DVD] エリアーデ幻想小説全集〈3〉1974‐1982

  • 2008/09/04
    エリアーデは1907年にルーマニアの首都ブカレストに生まれた。12年にバルカン戦争、14年に第一次大戦があり、この時期のブカレストはドイツ・オーストリア連合軍によって占領されている。そんな戦争つづきの幼少期を過ごす。1925年にブカレスト大学哲学部に入学。
  • 2008/09/04
    エリアーデは大学で中世哲学の教授ナエ・イオネスクに師事した。S.N.ダスグプタの『インド哲学史』に影響され28年にインドに留学。ダスグプタに師事するも、30年に娘マイトレーイとの恋愛が発覚して追放される。その後、西部ヒマラヤ山脈でヨーガの修行をした。32年に帰国、兵役に就いた。
  • 2008/09/04
    エリアーデは翌年に小説『マイトレーイ』を発表、評判となった。恩師イオネスクが逮捕されるまで、エリアーデも評論を通じて鉄衛団の活動に支持し、当局に拘束されて数ヶ月にわたって取調べを受けた。大戦が終結すると、共産主義化した祖国を捨て、難民としてパリで生活をはじめる。
  • 2008/09/04
    エリアーデは以前から研究に注目していたデュメジルの斡旋で、高等研究員として講義をはじめた。パリでの亡命学者生活は56年までつづく。パリ滞在中にたびたびスイスのアスコナを訪れ、ユングやキャンベルらと交流。
  • 2008/09/04
    エリアーデは49年にデュメジルらの推挙で『宗教学概論』『永遠回帰の神話』を出版。宗教学者神話学者として注目を集める。56年にシカゴ大学に客員教授として招かれ、翌年には正式に教授となった。世界的な名声に包まれ86年にシカゴで没する。以上wikipediaより詳しいエリアーデの生涯。
  • 2008/09/04
    直感で走る拙速の兎学者と、実証で歩む遅巧の亀学者でたとえると、エリアーデは明らかに前者だろう。彼の反歴史主義的な神話学はルーマニアの戦争体験が色濃くて学問的にアウトだし、彼のデータではなく思弁にたよる宗教学は現象学的で、どちらかと言えば神学・宗教哲学に軸足を置いたものだった。
Page 1 of 71234567»
アーカイブ
カテゴリー
twitter

Twitter Updates

    follow me on Twitter

    Return to page top