今月19日にTBS RADIOのライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフルを聴きました。ゲストは細田守監督。ポッドキャストで配信されているので、聴き逃した方はこちらから。
すでにどうかんやまきかくの楽屋裏: ウィークエンド・シャッフルで書いていただきましたが、細田守さんの語ったアニメの表現論はわたしが前に書いたものとよく似ていて、うれしかった。
かんたんに要約すると「生きてる感じ・もっともらしさ」がアニメ表現の面白さで、同じように正反対の「生きてない感じ・記号性」も面白さになる、ということです。ほかにも、アニメは現実をそのまま映すのではなく、手でアウトプットされたものだから面白い、という内容は以下で書きました。
このうち該当する部分だけを抜き出してみます:
絵、そして動画の表現とは「分解」であり「再構築」であり「再現」であり「感覚による変奏」であり「抽出されたもの」であろう。だから実写で同じような芝居、カット割りを行ったとしても、アニメーションとはまったくちがった時間、空間が生まれる。(略)分解され、抽出され、つくり手の感覚によって再構築された時空間は、実写よりも異質で、濃密なものになりえる。
そもそもアニメーションは、絵が絵であって同時に絵でなくなる表現である。ただの絵が、同時にその場所の風景であり、また、生きて血の通った存在として受け止められる瞬間の「エロス」こそが、アニメーションの魅力になる。
細田守さんは「動き」を中心に語っていましたが、わたしは背景美術のような止め絵でも、やり方によってはアニメ的な面白さを感じることができるだろうと考えています。
こういうアニメの表現論は、まとまって書かれたものを読んだことはありませんが、私のオリジナルではないでしょう。認知科学の本あたりで、誰かがきちんと書いてないかなーとぼんやり期待してます。たとえば認知科学の重鎮で、ご自身もチャーミングな佐伯胖さんは「コビト論」で、こんなことを書いていました。
人は「分身」を世界に派遣する
わたしはいくつもの「わたし」に分かれて、世の中のありとあらゆる世界(モノ、ヒト、コト)に潜入し、その、分身としての「わたし」(コビト)が対象世界の制約の中でかぎりなく「活動」し、「体験」し、そのような、あらゆるコビトの多様な「体験」が統合されたとき、わたしは世界を「納得」する。
「学問と人間」─ヒトがヒトを知るとは─学術俯瞰講義(3)
あらゆるモノ・ヒト・コトに自分を重ね合わせて、共感したのちに理解・納得する、というものです。これはアニメのキャラクターに「生きてるみたい!」とか「死んでるみたい!」と感じることに関係していると思います。ジャック・ラカンの「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」も思い出します。
アニメを見るときのリテラシーについて、また、奇形的な表現についても書きたいことがありますが、長文になりそうなので、機会があったらまた。


