人さまの記事をネタに語るという、ブログっぽいことをやってみます。
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アニメにおける「縦の構図」と「垣間見」の精神
要約すると、映像作品の「縦の構図」は奥行きを強調するので、見られる対象の前に遮蔽物などがあったりする。すると観客が「かいま見る/のぞき見る」ようになり、見られる対象の価値を高めたり、真実味をあたえる効果がある。……という内容だと読み取りました。
わたしが誤読している可能性は大いにありますが、おもしろい記事だと思ったので、批判的に検討してみます。
この記事のなかでも縦の構図とは言えない例を挙げてしまっていますが、ほかにも監視カメラっぽいフレーミングでも似たような効果を望めるでしょう。あるいは「かいま見るAさんの姿を正面から捉えた構図」→「Aさんの見た目で、BさんCさんがならんでいる横の構図」とカットをつないだとしたら、横の構図でもたいして変わらなくなります。
なぜ縦の構図にこだわるのか理由がわかりませんし、映像を語るうえでカットの連続性を無視するのはまずいでしょう。
そもそもフレーミングに意味はあるのか? という問題も考える必要があります。『フィルム・アート―映画芸術入門』から引用してみます。
わたしたちはときとして,アングルや距離などのフレーミングの性質に,絶対的な意味を与えたくなることがある。(略)映画技法の性質にそのような一対一対応の厳格な意味があるなら,芸術としての映画の分析はずっと簡単であろうが,それによって,個々の映画作品の独自性や豊かさはおおかた失われてしまうだろう。実際,フレーミングには,絶対的な意味や一般的な意味はない。
(P253)
フレーミングの機能はその作品のコンテクストによって決まります。つまり「かいま見る/のぞき見る」構図の機能(どういう意味をもつか/もたせたいか)は、作品のコンテクストによっていろいろ変わってしまうわけです。[補足:その作品のフレーミング機能がほかの作品に当てはまらない場合もある。もっと言えば、その作品のほかの場面に当てはまらない場合だってある。]
ただし『鶴の恩返し』のような物語類型でいうところの「見るなのタブー」は世界中にあるので、「かいま見る/のぞき見る」ことに対象の価値を高めたり、真実味を感じたりするような文化的背景は広く共通しているかもしれません。したがって、以下のようにまとめることはできそうです。
- 世界中に「見るなのタブー」の物語類型がある(文化的背景)
- われわれは「かいま見る」ことで対象の価値や真実味を感じるらしい(仮説)
- この心理は映像表現でも利用することができるだろう(仮説)
- 『CLANNAD』『ef – a tale of memories.』『true tears』の該当する部分(具体例)
- 「かいま見る」フレーミングでは「縦の構図」などがある(結論)
ここでは映像をつくる側の方法論を語っているので、意味の解釈は見る人にゆだねられ多義的であるという見る側の方法論は省きます。
この「縦の構図」は何も映画やアニメといった映像作品に限ったものではなく、日本の芸術全般において用いられてきました。例えば、古い日本庭園において「借景」と呼ばれているものがこれに当たります。
無理やり範囲を広げてまで「縦の構図」にこだわったのは、もしかしたら借景の話につなげたかったからかな? と邪推。
批判的に検討というか、要約してまとめた感じになってますね、はい。
貴重なご指摘ありがとうございます。
フレーミングの機能はコンテクストの問題だ、というのは全くその通りで、自分でも強引な解釈だなと思いながら書いていました。他に「垣間見る」というか「覗いている」感覚を与える方法としては極端な長回し、それもカメラの位置を固定した状態での長回しが考えられるでしょう。『らき☆すた』第6話の入浴シーンでその手法が使われていて、大いに面白がった記憶があります。この場合、フレーミングそれ自体にはあまり意味がありません。
実はアニメより日本庭園のほうが好きなので、借景の話につなげたかったから~、という指摘は的を得ているかもです。
ぶしつけな感じになってしまって申し訳ありませんでした。
心理学的にあるいは社会学的に映像を語ろうとすると、作品を分析するのではなく、分析に作品を合わせるような感じになることがあります。自説に都合のよい例だけをピックアップしてしまったり。この「垣間見る/覗いている」構図をつづけて論じていくと、そうなりそうだな、とちょっと思いました。
ただ、こういう映像論をブログで読む機会が少なかったので、批判的に検討しつつも、かなり楽しんで読ませていただいたのは確かです。
個人的にはアニメの垣間見演出家といえば星川孝文さんを置いてないだろうと思ってます。
もちろん意図はあるんでしょうが、彼くらいになるともう
『星川さんの視界には常にナメモノがあるんじゃないか』とまで思ってしまいますねw
小津安二郎や加藤泰のローアングルは、演出上でいえば効果的とは思えない使われ方をしています。やりたいからやっているんだろうな、という。きっと垣間見の構図もつねに意図があるわけではないでしょう。効果を望んでいるわけでもないでしょう。