朝永振一郎著『物理学とは何だろうか』が読み終わりました。充実した読書体験でした。ありがとう朝永先生。
第二章は、ワット、カルノー、トムソン(ケルヴィン卿)、クラウジウスを駆けぬけて熱力学がどのようにつくられたかの歴史になります。これがおもしろい、いや、熱い。
カルノーサイクルという効率を最高にまで高めた理想機関から、第一種の永久機関はつくれないことと、火力機関で取りだせる仕事には限界があることの証明は、文系のわたしでもわかるように書いてある手さばきがお見事のひとこと。ありがたや。あれこれの功績を残したカルノーは、コレラを患ってわずか36歳で亡くなったそうです。
その死後すぐにマイエル、ヘルムホルツによって「エネルギー保存則」が確立される。この保存則にしたがうなら熱がそのまま仕事に変換されてもいいはずなのに、じっさいには仕事を取りだすには高温のほかに低温も必要になることは変じゃないか? とケルヴィン卿は悩む。そこにクラウジウスが登場、そういう奇妙な性質を「それが熱の本性なのだ」と受け入れた。
ふつうに考えても「熱は自分自身で低温から高温に移ることができない」という法則を数式で表すのはむずかしいことはわかります。そこでクラウジウスはエントロピーという不思議な概念をつかまえて、これを使ってようやく数式で表し、熱力学の第一法則と第二法則をかたちづくった。天才的な発想ですが、やはり10年もかかったそうです。
カルノーはものが熱くなる理由を「熱素」のせいだと勘ちがいしていたので、ジュールにけちょんけちょんにやられたんですが、クラウジウスが第二法則をちょいと使って、過程はともかくカルノーの結論はそのまま成り立つのだ、と汚名挽回する。やったぜカルノー! これによって第二種の永久機関もつくれないことがわかった。
熱力学の第二法則では、エントロピーが「増大する」と言われますが、どんどん増えたりするのは、そこに時間が流れているというお約束がある。過去から未来にむかって時間の矢がどんどん進んでいるらしい、とわたしなどは素朴に信じているわけですが、そもそも時間ってなに? どういうもの? と考えるとき、これが重要になる。
閉鎖系ではエントロピーは増大するが減ることはない。そこでエントロピーが増えていく方向が時間の進む方向ではないか、と仮説が立てられる。この本では、ユークリッド空間とニュートン力学をベースにしているので、ここまでです。アインシュタインは登場しません。
さて、これで熱の法則はだいたいわかりましたが、じゃあものはどうして熱くなるの? というわけで第三章の原子論に進みます。原子は目に見えないので、ここから物理学は本格的に、知恵と勇気と勘の「冒険」をはじめるのです。
***
まずボイルが錬金術と化学をしっかり分けて、化学を粒子哲学のために役立てたいと願った。それから一世紀半もかかってドルトンが原子論を考える。化学の「定比例の法則」にピンとくる。水素2と酸素1でH2Oの水ができるやつです。わたしたち人間は原子のかたまりを見ているけど、それをばらばらにしていったら最後に分解できないものが残るはずだ、と。
ドルトンが考えた理論はちょいとまちがっていて、アヴォガドロの大胆な仮説と、ゲイ=リュサックの緻密な実験によって修正される。ベルツェリウスがたくさんの元素の原子量を決定する。
さらにボルツマン、マックスウェルが、マッハ、ツェルメロ、ロシュミットに反論を受けたり、『Nature』誌にて激しいが建設的な論争が行われたり(文系のわたしは人格攻撃ばっかりの論争を知ってるだけにうらやましい)、いまだに証明されてないエルゴード理論を考えたりする。
当時は「原子という目に見えず触れないものをあつかうなど空想にすぎない、これでは思弁哲学へ逆行だ」なんて反論があったそうです。原子論の証明にはおもに気体が使われたんですが、ある初期状態からはじまって気体が拡散したり、熱伝導したりする実験はやはり目に見えないわけで、力学といっしょにあやふやな確率論を使わなければならず、かなりの知的冒険だったようです。空想だという反論はもっともでしょう。
ともあれ、あやふやな確率論を使った仮説であっても証明していくしかないので、知恵と勇気と勘をもとに実験をくり返して、ようやく原子というものをみんなが認めざるをえなくなる。熱は分子の運動であることもわかり、また原子論からさまざまな法則が導かれていく。
そしていよいよ物理学は、観察する「人間」を無視することができなってくるわけです。ここらへん、この本の実に面白いところなので興味のある方はぜひ。
***
この本は電磁気学や相対性理論については書いてないんですが、ざっくりと古典物理学の見取り図が完成しました。
それにしても、わたしは読むのに時間がかかりすぎだし、数式が出てきたらまったくのお手上げなのが悲しい。朝永先生は「高校物理の程度だから練習問題としてこれを証明してごらんなさい」と軽く言いますけど、何度も量子コンピューターおばあちゃんに助けをもとめましたよ。わたしは脳内プランク定数の小さい人間なのです(覚えたての科学ジョークはきれが悪い)。
お次は、電磁気学や相対性理論をはさんで量子力学にいく予定ですが……もう数式を使わないでいるのも限界でしょうねえ。ここから先は、きちんと数式を学ぶか、通俗的解説本だけで浅く理解して終わるかの二者択一になりそうです。量子力学にかかったら、人間がマクロの世界に慣れているから信じこんでいるだけで、古典物理学など幻想にすぎないですから。このちゃぶ台返しをこころから楽しむには、それなりの投資が必要。
最後に、本の解説にあった朝永先生のおもしろいお話。翻訳は、原文から訳文は生まれるが、訳文は必ずしも原文にもどらない。非可逆である。だから「翻訳によってエントロピーは増大する」! こういう専門家のおしゃべりは大好きです。

一つ前の記事では失礼しました。
あと挨拶もなくて申し訳ないです。
記事についてですが、確かに数式、というか数学が分かるようになると物理学は見通しがよくなるとは思いますが、逆に数式の理解に手間取られて、かえって記述されてる物理現象の本質が見え辛くなったり、数式の理解だけで現象も理解できた思い込んでしまうこともあります。
まずは本に書いてあることが、日常で良く見かける様々な現象とどう結びついているかを考えてみるてはどうでしょう。その方が面白いですし、お金もかかりませんし(笑 これらは一年の時の担当教官(「物理学とはなんだろうか」はこの方の講義での推奨本でした)の受け売りですが。
余談ですが、色々絵描きの人の話を聞く限りでは、科学者にとっての数学(専門の数学者と一部の理論物理学者を除く)というのは、絵描きにとってのデッサン力みたいなものなのではないか、と最近思っています。数学のテクニカルな部分でつまづくのは不味いけれど、逆にそこに捕らわれすぎると直観力や発想力が鈍ってしまうという所が似ているかと。
あと、自分の経験上では、本当に優秀な人というのは数学的な厳密さを柔軟に織り交ぜつつ鋭い直観で本質に切り込んできます。
コメントありがとうございます。
ブログのURLが「挨拶」みたいなもんですよ。あれこれ自己紹介するよりもURLの方がずっと手っとり早いですしね。
朝永振一郎著『物理学読本』と、広瀬立成著『対象性から見た物質・素粒子・宇宙』を読みましたが、それぞれ似たようなことが書いてありました。まずは「日常でよく見かける現象から物理を考えよう」、それから「数学もしっかり学ぼう」と。朝永さんの本は教科書っぽいんで、数学をたいせつにする印象です。
「物理学にとっての数学」と「絵描きにとってのデッサン」はけっこういい例えですね。朝永さんは、優れた物理学者は必ずしも優れた数学者ではなく、逆もしかり、とおっしゃってました。
古典物理学のマクロな世界なら、身近に感じることができます。ところが相対論や量子力学や宇宙は、ミクロすぎたり、抽象的だったりして、なかなか具体的でフィジカルなイメージが結べません。そんなときは基本的な数式や法則は丸暗記しておかないとだめだなーと感じますが、「そんなことして、わたしは何になるつもりなのだ」と思ったりも……。まあ、楽しいうちは勉強するつもりです。
「双子のパラドックス」とか「鏡が左右対称になって上下対象にならない理由」を考えるときに、ぴんっと直感がはたらいて、考えるための正しい手順がいくつかひらめくぐらいになりたいと思います。