インド旅行、宗教者への敬意と世代的なこと

 きょうから同居人がインド旅行に行くので、さっそく『スッタニパータ』をぱらぱらめくって朗読してあげたり、飛行機事故からはじまるドラマ『LOST』の話題をふったり、焼肉を食べに行って「こうやって食事するのもこれが……いや、なんでもない」とつぶやいてみたり、あれこれすてきなおしゃべりを楽しみました(実話)。この旅行には20万円くらいかかるので、とうぜん貧乏人のわたしは行けません。

 昼すぎにエホバの証人が来て『すべての人のための書物』という小冊子をくれました。で、玄関先でちょいと聖書話になって意外に盛り上がりましたよ。「使っている聖書はどれか」という初歩的な質問には「新世界訳聖書です」という予想通りのお答えで、つづいて「新共同訳は使わないのか、またこの聖書をどう思うか」なんて危険な質問もぶつけてみました。どういうお答えがあったのかは書きませんけども。あと教会では新約の内容がメインになるのか、とか、聖書の歴史みたいなことを話しました。

 わたしは『新世界訳聖書』はけっこういい感じだと思ってます。読みものとしては明らかに失格で、とても読みにくい。むしろ読むための訳出じゃなくて調べるための訳出でしょう。ただし逐語訳が徹底的なだけに限定つきですが「正確」とも言えるし、原典にどういうニュアンスのことばがあったのかを想像しながら読めるところが良いです。そういえば呉智英さんもどこかの本で、新世界訳の訳文の方が「正確」だけど教会関係者はそれでいいのか、なんて書いてましたが、まさにそんな感じ。

 なんか、こう、説明しづらいのですけども、宗教についてあれこれ調べていくあいだに、キリスト教とか仏教とかを信仰している人に対する敬意のようなものが芽生えてきたんです。すげえぜ、あんた、という。たとえば「おれは天才だ」なんて言っちゃって、なおかつじっさいに活動する人への敬意に似てるかもしれません。アラーキーとか立川談志とかね。「おれは天才だ」なんて言いながら、なにかをやるのは、めちゃくちゃたいへんです。つねに天才ぶりを証明しなくちゃいけないし、少しも気を抜けないし、ボロを出したときには素早くかつ面白く言い訳しなくちゃならない。こりゃつらい。まねできない。でも、こういう人たちはやっちゃうんですよね。

 現代で人格神を信じることの困難。信仰を表明して生きることの困難を考えてしまうわけです。なにしろいまのこの日本では、阪神淡路大震災や新潟県中越大震災の被害地で宗教者が宗教活動をすることが許されない(参照pdfファイル)。また、仏教系大学が仏教の看板を外さないと新入生を確保できなくなっている現状があるわけです(参照)。それでも宗教者でありつづけることは、もしかしたらヨブ記よりもつらい神の不条理に立ち向かっているのかもしれない。

 さだまさしは、ざっくり単純化すると「おれの歌で世界を変えてやる」なんてことを平気で思ってる人だと思います。わたしは一方で「どんだけドリーマーだよ!」とあきれつつ、一方で「すごいぜ、あんた」とこころの底から敬意を抱いてしまう。歌を聴いて圧倒されてしまう。あたり前なんですよね。世界を変えるための歌は力強い。どこまでも力強い。それにくらべて「どんだけドリーマーだよ!」とつぶやくわたしの言葉はどこまでも無意味かつ軽い。ちょっと話がずれてきましたが、言いたいことはだいたい同じです。

 こんなことを書くと、けっきょく宗教者をばかにしてるんだろ、と思われるでしょう。まあ、思われてもいいです。ただ玄関先でエホバの証人の方とわずかな時間でも楽しいおしゃべりができたことがとても嬉しかったので、日記に書いてみたかったんです。

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