たくさん作品がつくられ、どんどん消費されていくと、お金がぐるぐる回り、そのお金でまたたくさん作品がつくられ……という世の流れに取り残されたのが、「落語」や「クラシック音楽」だったのかもしれない。そして、論理的にジャンプするけども、「評論・批評」も同じかもしれない。
「落語」と「クラシック音楽」については前に書いた。同じ内容のものを何度もくり返し味わう「落語」や「クラシック音楽」は、世の流れには合ってない。解釈をメインにしていてたくさん作品をつくってないし、消費者は目利きにならざるをえないため、消費のスピードはほかのジャンルと比べてかなり遅くなる。
「評論・批評」の役割のひとつに、パースペクティブをつくることがある。誰もが無視してごみくず同然に扱っていたところを掘り起こし、評価軸と価値をあたえ、パースペクティブをつくり出す。こういう活動は、とうぜん消費のスピードを落とすため、世の流れには合ってないと言える。作品をつくったり、お金をぐるぐる回す人たちにとっては、評価軸や価値をあたえてくれるのはありがたいけど、新しい作品を次つぎに消費していってくれないと困るわけだ。
アニメには「評論・批評」が確立していないと言われるが、必要なのかどうかを考えると、むしろ、確立しなくてあたり前なのかもしれない。実写映画であっても、まともな評論を載せる媒体がないと言われている。それは世の流れである。これから「評論・批評」は、お金がぐるぐる回る場所から離れているホームページやweblogの世界だけで生き残るのだろうか。
いろいろなところで「かしこい消費者」が求められている。ラジオの報道番組で話題になることが多い。「かしこい消費者」や「目利き」の考え方を裏打ちするもの、また豊かな土壌であり、屋台骨のひとつになっているのが「評論・批評」である。その「評論・批評」が世の流れから取り残され瀕死になっている状態で、「かしこい消費者」は生まれ得るのだろうか。
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柄にないことを書いてみた。が、やっぱり柄にないだけあって、つい「どうでもいい」と思ってしまい、後半ダレた。世の流れは変えることができないのだから流されるままでいい、という考え方と、できるかぎり抵抗しよう、というふたつの考え方がある。わたしは、どちらの考え方もうなづけるし、好きだから、たまに流されたり、たまに抵抗したり、である。『カリスマ』的な立場かもしれない。どうでもいいですね、はい。