『赤毛のアン』の感想で書き漏らしたこと

 第47話「死と呼ばれる刈入れ人」には号泣させられた。棺おけに横たわるマシュウの画には、近藤喜文さんのたましいがこもっている。これは『赤毛のアン』のすばらしいところでもあるのだけど、いきなりこの第47話を見ても、さほど面白くはないだろう。ここに来るまでの47話ぶんを時間をかけてすべて見たものにしか味わえない感動がある。種子をまき、水をやり、しっかり育てた者にだけにやってくる「刈入れどき」である。

 宮崎駿監督『ハウルの動く城』で、ハウルが机に刻印されたマークを消す場面がある。ここで使われる魔法が、魔法らしく見えるのは、ただ単にその場面のカット割がうまいからではない。たとえば冒頭のハウルとソフィーが飛ぶ場面、まわりのハウルの評判、なぞに満ちたハウルの行動、またはソフィー自身も知らなかったポケットの中身をハウルが見当てる行為、なぜか風が起きてゆれる髪、現実性のない色の激的な変化、などなど。

 こんな積み重ねがあるからこそ、魔法が魔法らしく見える。奇跡が奇跡に見える。たったひとつの魔法を描くために、これほどの迂回をしなくてはならないという、まさに演出らしい演出だと思う。でも、これを文章でしっかり語るのは面倒だし、むずかしい。つい、細田守の飛行機雲がどうのこうの、出崎統の三回PANがどうのこうのと、わかりやすく語りやすい演出ばかりに目が行きがちになってしまう(これは自省です)。

 『赤毛のアン』の演出は、そういう意味ではとっても語りにくいと思った。テレビシリーズならではの長尺を効果的に使った演出は、なにしろエピソードが多い。積み重ねがはんぱじゃない。好敵手ギルバートにまつわる演出をしっかり語るためには、比較的少ないとはいえそれぞれのエピソードを拾い集める必要がある。しかし、すべてピックアップしたらとんでもなく長い文章になってしまう。しっかり語ろうとするほど、そして効率よくまとめて語ろうとするほど、作品が、演出が、映像の豊かさが逃げていく。

 週一ペースでつくっているわりには、作画の大崩れがなくてすごい。残念なところだってそれなりにあるけども、致命的ではないと思う。わたしは気にならなかった。ときどき、ぎょっとするほど巧みな原画もある。

 コンテについて、カメラアングルについても書きたかったが、いまのわたしには無理だとさとってあきらめた。富野由悠季さんのコンテは、良く言えば作家性がある。悪く言えばうるさい。『母をたずねて三千里』のときのコンテもそうだけれど、どうしてこんなにくどいほど絵で説明したがるんだろうか。

 宮崎・高畑コンテは「絵で説明することなど、いつでもできる」という余裕があって、どっしり構えている。富野コンテは隙さえあれば「絵で説明してやるぞ!」と、あせっているようにも感じる。だから悪目立ちしている。たとえば第09話「おごそかな誓い」のブランコで遊ぶふたりの影からPANUPするカットなんて、やりすぎだろう。おそらく富野さんが基本的に絵を描かない、絵が描けない人だから、そうなるのではないか。その点で、同じ描けない演出家である高畑さんは落ち着いたものだ。もちろん、いまの富野さんのコンテは、このころとはだいぶ変わったと思う。

 ああ、まったく面白い作品だった。お話はだいたい知ってても、毎回わくわくしながら見ることができた。こういう演出をほどこしたアニメって、ぜんぜんなくなってしまった。なんとなく理由はわかるけど、実にもったいない。

赤毛のアン(1) ハウルの動く城 母をたずねて三千里(1)

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