『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』をぼーっと見直す。やっぱり、どう考えても、これはウソップの話だと思う。わたしにはそう見えてしまう。
オマツリ島の住人はみんな「嘘をつく」人たちである。オマツリ男爵も、お茶の間海賊団のパパも、ブリーフも、みんな「嘘をつく」ことで自分を維持している。いろいろな不幸を「嘘をつく」ことで、どうにかこなしている。
武器にも「嘘をつく」イメージが反映している。オマツリ男爵は、狙った獲物をつぎつぎに変えていける弓矢をつかう。パパも最後に弓矢をつかう。ブリーフはまるでモグラ叩きのように姿を現したり、隠したりできる地下道をもっている。いずれも「曲線的」で「フレキシブル」なものばかりだ。
とくにオマツリ男爵の弓矢が、植物が根をはるように出現するのがとてもいい。長年の嘘が積もり積もって、あの矢になるのだろう。「嘘をつく」イメージは、外見ばかりでなかが空洞の街並みにもつながっているし、巨大なバケツにも、魚とり網にも、浮き輪にも、つながっている。「曲線的」で「フレキシブル」なイメージは、リリーフラワーのデザインにもつながっている。オマツリ島はウソツキ島でもあったんだろう。
そういうやつらに対抗したのが、嘘をつけない男、ルフィだったのがすごい。ルフィはとにかく腕を伸ばしたり、顔を伸ばしたり、大砲の弾丸をからだで受け止めたりする「直線的」で「融通がきかない」なやつなのだ。とうぜん「嘘をつく」人間たちのこころのあやは理解できず、叫んだり、殴ったりするばかり。映画のラストは、愚直なまでにまっすぐ進むルフィを描いている。それこそ、からだじゅうに矢が刺さっても、まだ突き進む。
しかし、これでは構造的に無理がある。ラストの展開が山内重保ばりの黒いオーラを発するのはそのためだろう。つまり、ルフィのやり方では「剛をよく柔を制す」になってしまうのだ。これじゃなんの解決にもならない。オマツリ男爵をゲンコツで殴っただけですべて解決するなら、どうしてこんな苦労が必要なのか。最後のルフィの笑顔にもまだ黒いオーラが残っているのは、すっきり解決できない構造的な無理が祟ったのかもしれない。
そこでウソップの登場である。べつに主人公みたいな大活躍をする必要はないが、ウソップなら「嘘をつく」ことのよろこびと悲しみを理解している。だから、オマツリ島の住人たちに、こう言ってやれる。
「あんたらは誰かのために嘘をついてるつもりだ。でも、ちがう。あんたらの嘘は、自分が傷つきたくないからついてる嘘だ」
まるで三谷幸喜の演劇『君となら』みたいだけど、こうすれば構造的にもすっきりするし、加えて、オマツリ男爵やパパやブリーフのキャラクターもぐっと深まる。サンジとかどうでもいいから、ウソップをもうちょっと活躍させるべきだったと思う。
できれば、このウソップのセリフは行動でも示したい。ルフィたちの仲間の絆が壊れはじめ、みんなが誰かに罪をなすりつけようと必死に争っているなか、ウソップが自爆じみた「嘘をつく」。そして、自分ひとりが罪をかぶることで仲間の絆を保つ。ルフィたちは、はじめはウソップを攻撃するが、その嘘のありがたさに気づく場面もやってくる……とか?
前に見たときの感想に、この映画の最大の泣きどころは「いまソリッ鼻が死んだ」のセリフだと書いたけど、今回も同じだった。ウソップに幸あれ。
まあしかし、この映画はルフィのように愚直にまっすぐ進んだからこそ、黒いオーラを発してぞくぞくするような面白い作品になったのだから、これはこれでいいと思う。大好きな作品である。この曲線的な世界が、なぜか直線的なやつに蹂躙される作品を、細田守監督の「ジブリ顛末記」として見る感性をすぐには否定しない。でも、もうちょっとちがう見方も発見してほしいな、とも思う。
