『時をかける少女』が絶賛されて、細田演出がすごいと評価されているのにたいして、『ゲド戦記』には罵詈雑言があびせられ、吾朗演出がひどいと酷評されているのは、理由がわかりません。どうしてこんなことになるのか。
これは公開規模の大きさの話ではないでしょう。なにしろ、ひとりの人間が『時をかける少女』をほめることと『ゲド戦記』をけなすことを同時に行っているケースが多いのですから。『ゲド戦記』の公開規模がずっと小さかったら、ほめられていたのか? いや、そんなことはありえない。
はっきり言ってしまえば、『ゲド戦記』の吾朗演出がまともに見られてない人には『時をかける少女』の細田演出でさえまともに見られてないと思います。道路標識? 飛行機雲? これがどんな意味作用をもっているか、考えたことはあるんでしょうか。坂道? 自転車? 走ること? 食べること? 画面に描かれるものが、画面に描かれている以上の意味をまき散らしながら物語が進行する、この細田演出を、細田ファンはほんとうに楽しめているんでしょうか。
わたしもひとりの細田ファンとして、ファンが増えることはうれしい。しかし、細田演出が「物語」や「キャラクターの魅力」として語られるのは納得できません。そんなものを楽しみ、語りたいなら、映画である意味もアニメである意味もないからです。場合によっては細田演出は要らないことになってしまう。それは『ゲド戦記』でもまったくいっしょです。
それぞれの監督の個性は、たしかにあります。たとえば『時をかける少女』には、真夏の暑い時期なのに、なぜか暑苦しい鉄板焼きを食べる場面がある。これは絵コンテを描いていたのが真冬だから生まれた場面でしょう。こんな日記テイストの細田演出を愛する人は、冷や麦くらい食わせろよ、とは言いませんね(某所で「肉だけまとめて食ってしまう真琴の暴挙が引き立つ」場面とのご指摘、ありがとうございます)。
『ゲド戦記』の吾朗演出の個性やテイストは、もうちょっとヘヴィーです。アレンがクモに黒い液体(ハジア)を飲まされて、上くちびるが紫色にかわる場面はすごい。クモによる洗脳がはじまり、アレンのくちびるはどんどん色がついてゆく。洗脳が完了して、真の名をつげてしまうころには、アレンの上下のくちびるはすっかり紫色にかわります(目も落ちくぼむことに注意)。アニメは基本的にくちびるを抽象化して、肌と同じ色に塗ってしまいます。この抽象化をうまく利用した絶妙な演出ですね。洗脳という現象を視覚化したとも言えるでしょう。『千と千尋の神隠し』で千尋が名前を奪われる場面もいっしょに思い出してみてください。
アニメの本質を理解しているファンなら、ぞくぞくする場面のはずです。この色の変化は、クモのくちびるが塗られたデザインや、テルーの顔のアザにもつながるイメージであることは言うまでもありません。それぞれの監督の個性は、個性のまま、愛することができるはずだと思います。映画やアニメが好きな人ならば。
『時をかける少女』と『ゲド戦記』は、原作との兼ね合いもよく語られます。文学と映画を同じ水準でくらべる愚かさに無理やり目をつむったとしても、お話になっていないですね。19世紀的な遅れた認識でしょう。出崎統監督の『おにいさまへ…』は原作を否定しながら進みますが、原作もすばらしければ、アニメ版もすばらしい。とても同じ水準では語れません。
以上のことをふまえると、ほとんどの観客はアニメーションの本質も、映画の原理も、まったく気にせずに、まわりのあいまいな評価を鵜呑みにしてこの二作を見ているのかもしれない。僭越きわまりないことですが、まれにみる絶望的な状況だと思いました。
絶望的と悲しむだけではいけないと、妙な使命感にかられます。わたしにできることといったら、ただひとつ、アニメーションの本質への問いかけを行うことでした。
アニメーションのエロスとタナトス、『ゲド戦記』とりんたろうについて
初心者のためのりんたろう講座
エロスとタナトスについての補足とまとめ
これらの日記はアニメーションの本質を語りました。生きていないものが生きているように見えるというエロスのために、アニメの技術は発展してきた歴史があります。大塚康生の感情を伝える作画も、『人狼』のリアル系作画も、ただの絵空事をもっともらしく描くための技術です。逆に、アニメがエロスの重たい歴史を持っているだけに、アニメがアニメであることを告白してしまうタナトスの表現も生まれ、確立されます。エロスとタナトスは表裏一体でひとつのアニメーションになるのですね。
エロスとタナトスの技術は、どのようにして描かれるのか。アニメーションの得意な表現と、苦手な表現はなんだろうか?
この日記はアニメーションの抽象化について語りました。ここらへんの感覚は、じっさいに作画をしてみた人間でないとわからないことも多いらしく、たくさんのメールをいただきました。ありがとうございます。
お次は映画の原理にせまります。主に映画学の知識を、高校生ぐらいの人なら理解できるほどに噛みくだいて説明しました。
映画学のススメ――アニメスタイルの文化的な不幸
映画と音響――「映画は音だ!」の理由
これらの日記は、映画が原理的にどういうもので、それが観客にどう受け止められるのかを大まかに書いたもので、書き漏らした部分も多いです。たとえば、映画館について、映画の歴史について、観客の歴史については、あえて避けてます。
映画の原理の説明のあとは、その証明になります。絶好のテクストとして『人狼』をあつかいました。
同時に、レイアウト技術は、ただ単にうまい絵ではなく、「表象」と「現実性」と「配置」をいっぺんにこなすものであると語りました。そして、最後をしめくくるのは、もちろん『ゲド戦記』のアニメーションの本質と、映画の原理をつかった演出の説明になります。
公開中の映画なので、詳しく語れないのが残念です。ただ『ゲド戦記』の繊細で独創的な演出があまりにも見逃されすぎていることにたいしての、ひとつの警句にはなったんじゃないかと……願いたい。
以上が、この八月の大まかな出来事です。たぶんこれからはアニメや映画に関する日記は減っていくと思いますが、今後ともどうぞごひいきに。ここ数日でアクセス数が急にのびたので、ざっくり八月の日記をまとめてみました。