『ゲド戦記』とか映画やアニメについて頭が痛くなるほど考えていたら、いつのまにか、きのうの小説みたいなものを書いていた。完全にトランス状態になっていた。書き上がったものを読んで、小説としては稚拙だけど、いま漠然と考えていることがすっぽり収まっていたのにおどろいた。
商業アニメの限界(肌色のやわらかいグラデーション)
萌えアニメ批判(グロテスクに目を拡大する)
映画やアニメを見る人間的な限界(視力の下がりすぎたわたし)
限界を知りつつ語るしかない現状(「きれいだよ」とわたしは言った)
眼鏡をとったら、ほんらい目があるところが肌の壁だった、というイメージなのだけど、すると彼女はなんなんだろう。ふつうに考えれば妖怪というか、一般的な人間ではない。だって目がない、というか小さすぎるのだから。彼女は、針の穴ほどの小さな目をケント・デリカットみたいに眼鏡で拡大して、一般的な人間のふりをしている。ふしぎなイメージではある。リアリティはまったくない。
ところが、「わたし」は彼女のことを神秘的な人だと考えているらしい。彼女は「映画やアニメ」そのものの象徴ではないだろう。むしろ「映画やアニメが人にどう見られているか」の象徴かもしれない。いや、彼女は「映画やアニメ」の象徴で、眼鏡をかけた彼女が「映画やアニメを人はどう見ているか」の象徴か? 人は眼鏡なしでは映画やアニメが見られない、という意味なのかもしれない。でもそうすると「わたし」は何者なんだろう? ちょっとよくわからない。どうやら彼女を『ゲド戦記』の象徴にもしているらしいから、いよいよ混乱している。自分の書いた小説でここまで遊べるなんて、わたしはつくづくしあわせ者(ばか者)だ。
イメージはイメージのまま、あいまいなものはあいまいなまま掴むことは大切だなとあらためて思った。『火垂るの墓』の節子のように乱暴に掴んだら、ホタルはつぶれて死んでしまう。映画やアニメについて思ったことを評論のスタイルじゃなくて、小説やら詩にトランスポートするのも面白いかもしれない。そうすれば罵詈雑言をあびせる感想でも角が立たないし。