坊主記念日

 バリカンの操作ミスで、和尚のような短い坊主になってしまった。けっこう頭のかたちは不規則にボコボコしていて面白い。わたしは一休よりも良寛が、明恵よりも法然が好きなので、坊主記念日としてふたりについて書きたい。ちょっと前にイエス・キリストについて書いた日記を中和する意味でも。前の坊主記念日はこちら

 マクロビオティックの日記にも書いたけれど、良寛のように子供にも大人にも、そこらに転がる石や路肩に生える雑草にもわけ隔てなくこころで手を合わせ、尊敬する気持ちがあったら、どんな健康法を試すよりもずっとすてきだと思う。いや、夏目漱石がそうしたように、良寛はひとつの健康法にも成りえるかもしれない。

裏をみせ表をみせて散るもみぢ

 この句にあるような、表と裏、瞬と久、善と悪、浄と穢、動と静、聖と俗、都と鄙、天と地、日常と非日常、そのあいだを行ったり来たりするマージナルな良寛はとても面白い。ただ、誰もがこんな心持ちになれるはずはないので、あくまで良寛はモノサシに近いと思う。『風の良寛』にあるとおり、自分の真偽を見定める基準としての良寛。あるいは自分と禅定のあいだにひろがる距離を測るものとしての良寛。この場合『良寛の実像』はあまり関係ない。良寛が月の兎にそそいだまなざしで、わたしは良寛を眺めたいのだから。

 法然は宮崎駿と同じように尊敬している。法然は日々懸命に念仏を唱えるうちに幻覚を見た。そしてその幻覚を使ってひとつの思想をかたちづくり、さらにその思想は民衆運動に発展して権力者を怯えさせ、最終的に日本人の価値観形成に影響を与えるまでに至った。たったひとりの坊主の幻覚がここまでの実行力を持てるものかと、正直信じられなかったが、高畑勲の「エロスの火花」を読んで、これは『となりのトトロ』と同じだなあ、と思った。宮崎駿はトトロを子供たちのこころに住まわせ、ひいては全国の森や林にトトロを住まわせた。たったひとりの演出家の幻覚(妄想)が実行力を持った具体的な例が、けっこう身近にあったのだった。だから法然が詠んだ浄土宗宗歌、

月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ

 この「月影」は、アニメーターとして「仏」の意ではなく「トトロ」の意とあえて誤読したい。良寛と法然のふたりのスターにあこがれつつ、坊主をじょりじょりなでる日々であります。

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