十字架のような人

 聖書のラスト。むごい責め苦を受けつづけ、十字架にはりつけにされたイエスは、その最期に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と絶叫した。これは「わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味で、イエスが主の神を疑ったことばとして無視をきめこむ教徒も多いらしい。

 映画『パッション』は、とげとげのムチで叩かれて、気絶したイエスをさらに苦痛を与えて目を覚まさせるような残虐な場面をねちっこく描いていた。そのもがき苦しむイエスの姿を見ているうちに、「まあ、主の神を疑うくらいのことはするわな」とわたしは思った。神の子であっても受肉されて肉体があるのだ、痛いものは痛いし、苦痛から逃げたいとも考えるだろう。それが人間なんだから。

 十字架は横の棒が「人間の肉体」を、縦の棒が「神の霊」を象徴していると言われる。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と絶叫することで、「人の子」と「神の子」のふたつが交わった、まさに十字架のような存在になったのだと考えることもできる。そう解釈すれば、これほど聖書にふさわしいクライマックスはないだろう。このセリフに無視をきめこむ教徒の考えがわたしにはわからない。

 イエスが十字架のようになる場面をアニメに置き換えると面白いかもしれない。主人公が「人間」と「線画」に引き裂かれようとするが、ラストはふたつが交わった十字架のような存在になる、というような、アニメの根っこを描く作品はどうだろう。あるいは実写だけども、コスプレ好きの女性が、変態男に拉致・監禁されて、責め苦を受けつづけた最期に「人間としてのわたし」と「キャラクターとしてのわたし」の交わった十字架のような存在になる話とか。

 そういえば細田守さんの『どれみと魔女をやめた魔女』は、それに近いかもしれない。ガラス細工をする未来さんは「人間」と「魔女」が交わった十字架のような存在で、「エリ、エリ~」の代わりに「わたし、年上好みなの」とせつないささやきに似た絶叫をしていた。永遠に生きることを約束された魔女は、人間と恋に落ちても決して結ばれないのだった。

 主人公のどれみは魔女見習いとして、その十字架の苦悩に出会い、分かれ道でどちらに進むかの選択を迫られる。物語のラスト、どれみは十字架のような存在にはなれず(ならず)、テレビアニメの主人公にふさわしい「V」字の分かれ道のような存在で終わった。日曜日の朝に放送されるテレビアニメとしては、けっこうやばいところまで踏みこんでいたが、できればもうちょっと先を見せてもらいたかった気もする。お気楽な主人公のどれみは、十字架にはりつけにされて、どんな絶叫をあげたんだろうか?

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