演出家と「悟る」こと、評論家と「わかる」こと

 断言しまくってますが、あまり本気にしないでください。

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 優れた演出家は悟った者である。ものをつくる現場は、あらゆるところで決断を迫られる。たえず時間に追われながら、作品のなかのほとんど誰も注意を向けない細部であっても、誰かが決断をした痕跡にたいしても、短時間のうちに「OK」と「NG」の線を引いていかなければ作品は生まれない。

 そんな状況で、具体的な処理をほどこすためには、「なんとなく」とか「そういう気分だから」ぐらいの直感をフルに使わなくちゃならない。演出家の才能は、その直感がゆっくり時間をかけて練られた理屈とほとんど同じことである。

 言ってることは立派だけど作品がつまらない演出家は、理屈でわかっていることを短時間で処理する直観力が足りていない。「わかって」いるだけで「悟って」はいないのだ。「わかる」より先に行動できる状態を「悟る」と言う。優れた演出家は悟った者である。

 小津安二郎はそんなに理屈でわかっていたわけじゃなく、だいたいは直感で演出をしていたと思う。小津の直感を理屈としてわかる状態までばらばらに分解したのが、蓮實重彦の『監督 小津安二郎』である。だからこの本は演出家の役にはたたない。この本は、内容を「わかった」うえですっかり忘れ、いちいち考えなくても勝手に手足が動くようになるまで「悟った」ときに、はじめて演出家の役に立つものになる。

 監督は直感と理屈がほどんと同じである能力が求めらる。また直感と理屈のズレがユニークであることも求められる。直感がどこまでも理屈で掘っていける小津安二郎や、直感と理屈のズレがとびきり個性的な黒沢清が、批評家にもウケるのはこのためだろう(観客にウケるかどうかは別の問題)。

 理屈で「わかって」いるところ、理屈と直感とふたつで捉えているところ、直感のみで「悟って」いるところ、この三つがどういう割り合いでまざっているかが演出家の個性のひとつと考えられるかもしれない。

 どうすれば悟ることができるのか? それは言葉にならないから「わかる」ことはできない。誰もがすでに悟っていると言うことだってできる。ただし、悟ったところですばらしい作品がつくれるかどうかはわからない。

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