映画『時をかける少女』その2 (2/3)

 必見の映画です。今後の劇場アニメーションを語るさいには避けて通れぬ作品になると断言できます。いそいそと映画館に出かけましょう。

 この映画でついに細田守監督は原理主義者になったな、と率直に思いました。原理となる聖書は、過去の自作です。いままでもそういう気質はありましたが、これは決定的でした。そういう意味では「細田守の集大成」と言ってさしつかえないと思います。

 この作品の大きな特徴は、過去の自作の演出的な到達点をどう合理的に、効率的に、効果的に配置するかに終始しているため、絵コンテに迷いが少ないところでしょう。前作『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』のときの、描くべきものにあえぎながら手を伸ばし、しゃにむにもがき、ふと描くべきものを見失っていることに気づき、その絶望感にさいなまれながらも、それでも空を切りつづける手をさらに前に出すような、あの切実な、祈りにも似た葛藤が、この作品からは感じられません。

 その葛藤は、フィルムにはたしかに認められるものの、目には捉えられない素早さで通りすぎるために、もしくは空気のように漂っているがために、うまくことばにできない性質のものです。祈りにも似た葛藤、わたしはそれを「詩」と言い換えます。細田守監督の祈りにも似た葛藤は、「詩」となって観客の胸を深くえぐる。SF小説『ハイペリオン』の詩人の物語で、「不出来で不正確な言葉の羅列からは、精神に対するすばらしい妨げが生まれる」と表現していたものと同じです。『時をかける少女』は面白いけれど、なにかが足りないと感じました。そのなにかの部分に、わたしはそっと「詩」ということばを置いてみたい。

 これは、細田守作品を愛しすぎたファンの妄言で、くり返しになりますが、一見さんにとっては実にウェルメイドな映画だと確信しています。気になる方は、迷うことなく映画館に駆けつけて、すてきな感情のうねりに身を投じてほしい。もっと濃く楽しみたい方は、DVDを買って映像を暗記するほど見返して、フィルムの重層的、多元的な意味合いを読みとり、各ショット、各シーンの構造を映画全体的な文脈までさかのぼってくり返し反芻するような、映画学で言うところの「理想的な観客」になってもらいたいとも思います。好事家の方は、細田守監督の過去の作品をすべて見て、味わいつくしてほしい。その後で、愛ゆえにもっともっとと求めてしまう悲しいファンのつづるこの文章を読み返していただけたら幸いです。

 ただ、この映画を原理主義者の正しい自己正当化の産物だとか、聡明な数学者がこしらえた数式の産物だと言い切ってしまうことには、少しの戸惑いが残ります。この映画のロジカルな構成にただひと筋、ぽたりと垂らされた濁りのような「詩」、それを平田敏夫さんの手によるあの絵に感じました。登場人物の行動の心理的なうらづけにささやかなほころびが生じてしまうあの絵は、構成的な弱さがわかっていてなお、どうしても出したかったものだろうと想像します。あの絵に細田守監督の次回作を重ね合わせて、わたしはいましばらくの夢に生きます。

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