下高井戸シネマで川本喜八郎監督『死者の書』を見た。民俗学に興味を持ち、書店でたまたま手に取った『初稿・死者の書』に感銘を受け、これはアニメ化したら面白いだろうなと思っていた矢先に、この映画がいま家の近くで公開されていることを知った。このすばらしい偶然に感謝するしかない。
映画そのものは、人形アニメーションの巨匠、川本喜八郎の横綱相撲であった。ちょっと前の日記で、『死者の書』を映像化する場合は大昔の背景に少し説明を加えるだけで原作どおりそのまんま描くしかない、なんて書いたけれど、この映画の演出はその最たるものだろう。あの折口信夫のわかりづらい語り口でしか表現できないものがある以上、誰が演出してもこうなるのかもしれない。あらためて原作の語り口の強度を考えさせられた。
しかしこの映画は、折口信夫のわかりづらい語り口でありながら、同時にまぎれもなく川本喜八郎らしい独特の語り口にもなっている。郎女の瞳から俤人と死者が重なって見えたように、わたしの瞳には折口信夫と川本喜八郎が重なって見えた。わかりづらい語り口でしか表現できないものがあるように、人形アニメーションでしか表現できないものがあるという、あたり前の話だが、そのふたつの語り口のみごとな調和がこの映画のすばらしさだと思った。
なぜ折口信夫はわかりづらい語り口を選んだのか。それは神話がわかりづらい語り口だったからである。レヴィ=ストロースは、古代の人にとって神話は哲学だったと言った。神話は、ときに物語の展開が唐突だったり、人物の行動に一貫性がなかったりする。そういう神話の矛盾を含んだ語り口は、古代の人が矛盾に満ちたこの世界をそのまま捉えるための知恵である。折口信夫は、神話のようなわかりづらい語り口でしか、古代の人を活き活きと描くことはできないと考えたのだろう。また『死者の書』の読者は、わかりづらい語り口をそのまま受け入れることでしか、古代の人のこころのありように触れることはできないのである。
人形アニメーションは、人形の顔から感情が読み取りにくいがゆえに、このわかりにくい語り口との相性がよかった。なにしろ神話的な人物は、いきなりとっぴな行動をとるのだ。平気で逸脱してくる困ったやつらなのである。そこにどんな感情があったのか、観客はわからないまま受け入れるしかなく、つくり手にだって確信が持てるはずはない。川本喜八郎の老練の演出は、神話的な人物の顔をほとんど変化させなかった。矛盾や逸脱を描くためには、あらゆる感情が読み取れ、同時にあらゆる感情が読み取れないような、純粋に透明な顔が必要だったのだ。ちょっとややこしい言い方をすれば、神話的な人物を描く場合は、シニフィエ(記号内容)を欠いたシニフィアン(記号表現)が成立する人形アニメーションの独壇場である。折口信夫のわかりづらい語り口でありながら、同時にまぎれもなく川本喜八郎らしい独特の語り口にもなっているというのは、つまりこういうことだ。
藤原南家の姫、郎女は『称讃浄土仏摂受経』を筆で一字ずつ書き写し、千部写経する。また40kgの蓮茎からたった2gしか採れない糸を編んで、100平方メートルほどの巨大な衣をこしらえ、それに筆で曼荼羅を描く。そういうとほうもない行為を経て、郎女は悟りの境地に達する。川本喜八郎がこの郎女に惹かれた理由がわかる気がする。コマ撮り人形アニメーションは、一コマずつピンセットを使って人形をミリ単位で動かし、24コマ撮影してやっと一秒、それを70分の作品に仕上げる。労力と時間を惜しみなくかけることで、映像はまばゆいばかりの神々しさをたたえる。気の遠くなるような地道な行為を通してなにかをつかもうとする姿勢は、郎女のそれと同じである。わたしは映画を見ながら、川本喜八郎の「人形による表現の集大成として『死者の書』を実現したい」という言葉の切実な響きに胸を打たれた。
Comments:2
- おっぱっぴー 10-03-08 (月)
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川本監督と言えば40代後半に制作した「鬼」が凄すぎます、見たら鼻血でますよ。
- 平川哲生 10-03-08 (月)
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DVDの『川本喜八郎作品集』を持ってます。
『鬼』はいいですねー。
川本監督の作品はすべてすばらしいんですが、私はなかでも
『いばら姫またはねむり姫』がお気に入りです。