『恋の門』は、ああ松尾スズキが好きな人はこういうところが面白いんだなぁ、と学習するための映画になってました。わたしがゆいいつ心から笑ったのは、ヒロイン恋乃の父親が『伝説巨神イデオン』の主人公コスモのコスプレをしていたところで、オレンジ色のアフロ・ヘアは実写だと想像以上におかしいです。あと、旅館の親父として出演していた庵野秀明さんが、ロボットもののアニソンに、おそらく演技を忘れて素で踊っていたところが生々しくてよかった。
カメラワーク、カット割りのミスがちょっと気になりました。たとえば「大人なのに走って逃げた」のくだりは、いきなりのロングショットで、誰が走ってるのかわからない。まず走って逃げる人物の顔をしっかり見せてから、ロングにするべきでしょう。逆にアップ過ぎて誰だかわからない場面も多々ありましたが、これはわたしの動体視力のせいかもしれません。
セットはしっかりつくってあるのに顔のアップが多すぎるとか、意味のない急なズームとか、かっこつけるためのスローとか、ごまかすための手ぶれカメラがうざいな、とも思いました。ところどころに挟まれる小ネタが物語のエモーションを冷ましていくのが残念でしたが、脚本や演出のバランスの悪さは狙いで味にしているらしく、ファンには面白く感じられるんだろうな、と。
『珈琲時光』は豊かなイメージの海でちゃぷちゃぷと波遊びをしているような、心地よい映画でした。電車を使って、人物の内面からそれぞれの人間関係までを過不足なく表現していく、その手さばきが見事で、電車がこんなに魅力的な乗物だったとは、と驚きました。
主人公の一青窈は、妊娠しているのだけど、台湾人のマザコン男とは結婚しないで、自分ひとりで子供を生んで育てると言う。ひとりで子供を育てることに不安を感じるふうでもなく、また生みの母と育ての母が別の人だという自分の過去にも悲観や屈折がない。そんな性格は、まっすぐな中央線に乗るとからだの具合が悪くなってしまうのに、山手線では居眠りするくらいリラックスしている姿とイメージが重なりました。たぶん一青窈にとっての現実は山手線のようなものなんでしょう。目的の駅を通りすぎてもまた一周回ればいいさ、そのうちなんとかなるさ、というような。直線よりも曲線、あるいは円を好む性格だから、近親相姦のない現代では直線的な血縁に縛られるマザコン男と結婚しないのでしょうし、自分の子供にも血縁を押しつけたくないとする姿勢は、ゴブリンが赤ん坊をさらっていく童話の夢に表れているのかもしれません。
小林稔侍の演じる父が、娘の一青窈に、親としてなにか言おうと、説教や注意をしようとするのだけど、言えない。父はもくもくと酒を飲み、娘はもくもくと肉じゃがを食べる。その長い長い沈黙が、父→娘の直線的な血縁の対立をゆっくりと曲線に変えていくような、小林稔侍が一青窈の山手線みたいな生き方を尊重しようと努めているような、感動的な場面でした。ここでの小津的な食べものの主題は見逃せません。
一青窈と浅野忠信は、ふたりで音楽家・江文也ゆかり喫茶店を捜したりするのだけど、ほどほどの距離を置いたふしぎな関係で、そんな関係は、ふたりが別々に乗った二台の電車が並んで走る場面や、上下段で交差する電車のイメージで表現されている気がしました。タイトルにある珈琲が二度、一青窈から浅野忠信へと渡される場面は、小津的な食べものの主題を通して、友達とか恋人という関係を超えたなにかを思わせます。
映画の全編とおして、どこまでが台詞や演技設計なのかわからない自然な風景で、こういう言い方もあれですけど、一青窈を盗撮&ストーキングしているみたいでドキドキしました。洗濯物を干しているときのノーブラ感のエロス。妊娠のためなのか、部屋でだるそうに寝てる場面のエロス。
映画や小津が好きな人、蓮實光線の被害者、盗撮映像がたまらないって人におすすめの映画です。