アニメの倫理

 某作品の一話が完成したらしく、ダビングしたビデオをもらった。ここであれこれ書いているギャルアニメである。現実の男の子の前に、非現実的な女の子がやってくるという、『天空の城ラピュタ』みたいなお話なんだけど、これがまあ、あまりにも無防備におたく的なので呆れてしまった。女の子との出会いが、まずスキンシップからはじまるという展開は、「触ること」という宮崎駿の演出をお手本としていると思う。ところが、その女の子には体重がない。たびたび抱きかかえたり、おんぶするのだけど、空気みたいに軽い。女の子は不思議な力でふわりと飛んでいたり、ふたりで空中を泳いだりする。これじゃダメなんだ。

 宮崎駿の偉大さは、「触ること」と共にある「他者という痛み」にあるんじゃないか。なにも、抱きかかえたり、おんぶするカットすべてに体重を感じさせる作画をしろ、と言ってるわけじゃないのだ(大変だから)。一カットでもいいから、女の子の重さを感じさせるカットがあればよかった。ひとりの人間がどれほど多様で、歴史の厚みがあって、いいところも悪いところもひっくるめた存在なのか。ひとりの人間と関係を持つということが、どれだけ大変なことなのか。それがわかるカットがひとつでもあれば……。どうしてパズーは歯を食いしばってシータの重みに耐える必要があったのか、その理由が少しでもわかっていれば……。

 この作品に出てくる女の子は、かわいくて、胸が大きくて、やわらかくて、いいにおいで、弱弱しいだけの存在として描かれている。男の子の欲望を満たしてくれる、欠点のない、ひたすら都合のいい女の子だ(つまりアニメ的な女の子)。そんな二次元の人間を、男の子がいくら「オレが守ってみせる」と言ったって、うそ寒いドラマにしかならないだろう。まったく無防備におたく的だ。

 無防備なのは、女の子の描き方だけじゃなく、演出にも見られる。「言葉で描くこと」と「画面で描くこと」が、ごちゃごちゃなのだ。中途半端にセリフで説明してみたり、とってつけたように画面で説明してみたり、カット割りがおろおろしている。これもダメだ。

 たとえば『おジャ魔女どれみ』の細田守演出回「ずっとずっと、フレンズ」を参考にしてみれば、わかりやすい。主人公があれこれ悩んだり、友人たちがそれを心配するシーンは、主に言葉を使って描いている。これは、視聴者に映画のような集中力を望めないテレビというメディアでは、とても有効な手段だし、テレビの利点だろう。ところが、主人公があれこれ悩んだすえの「決心」とか、心配してくれた友人たちとの深い「友情」は、画面で描かれている。どうしても言葉にならないこと、言葉にすると陳腐になってしまうことは、主人公のメガネをつける芝居であったり、フレンズという曲を演奏する楽器のアンサンブルでしか表現できないからだ。

 ここでは、「言葉で描くこと」と「画面で描くこと」のはっきりした住み分けがなされている。しかし無防備な演出は、この住み分けを平気で踏み倒す。踏み倒した先に、新しい野心的な表現を狙ってるのなら、まだマシなのだけど…。ただ、わからなかった、知らなかった、それだけのことだろう。これは演出家の能力とかセンスの問題じゃない。きわめて倫理的な問題なのだと思う。

 怒りにまかせて書いてしまった。怒られるかもしれない。けど、これはあくまで倫理的な判断なのだ、と強気で攻めないといけない気がしている。アニメーションはその程度のものであっていいはずがないのだ。

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