シミュ研の男

 今日も元気ハツラツな僕が買ったばかりの玩具の箱を帰宅まで待てず車の中で開けてしまう子供のような目でホームページを更新しようと端末室の席に座ったら、隣の席に座っていた男がクイックタイムで『To Heart』のアニメを観ていた。繰り返す。隣の男が、クイックタイムで『To Heart』のアニメを観ていた。僕は水滴る躰に電撃を喰らったような激しいショックとともに、自分でも信じられないほどの確信と戦慄が頭の中にハリケーンとタイフーンの違いを提示してくれるごとくキラリと煌めいたのを見た。シミュレーション研究会だ。こいつはシミュ研のダークなおたく君に違いない。

 今まさにそいつのパソコンの画面には、ケルト人のような紅い髪の女と極めて標準的な日本人の風貌をした男が校庭の隅でちちくりあっている状況がデカデカと映し出されている。あらかじめ断っておくが、僕はエロゲーに疎いので『To Heart』というタイトルだけで、それに登場するこの二人のキャラ名は全然分からない。マルチとかいう緑色の気持ち悪い髪の毛と難聴の患者がつけるような器具が耳だという馬鹿げた設定の機械人形は、以前描いたことがあったのでちょっと知っている。あと、いま画面上で視聴者に一種異様なほど媚びを売っているケルト髪のひどく目元がだらしない女は主人公の幼なじみだ、ということも不確かで朧気な記憶だが残っている。

 右手の人差し指をヒザの上でピクリピクリと痙攣させているシミュ研の男は、逆の左手でほお杖を付いて喰い入るように画面を眺めている。長い。何分のファイルだ。男は、しばらく私は『To Heart』三昧なんですよハハハ、という声まで聞こえてきそうなほどにリラックスした姿勢をほおに当てた左手だけでキープしている。2サイズは大きいと思われるYシャツの襟から、だらしなく首もとのヨレたTシャツが見えている。僕は、どこからそのファイルを落としてきたのか疑問に思った。というか一体、いつまで観続けるつもりなんだろうか?

 よく見ると男の右手は、痙攣ではなく何か文字を書いてることが分かった。男は目で必死に画面を追いながら、手でヒザに一生懸命に何かを綴っている。たまに画数の多い漢字を連続して書いていた。男の目が輝きを増して指の動きがヒザを越えてしまうほど激しくなった。普段ノートなどに書く男の文字は判読しづらい汚い字であることが、その動作から想像できる。しかし何をヒザに書いているのだろうか。分からない。そのことがかなり気になってきた自分に少し戸惑う。今観ている『To Heart』の感想だろうか。知りたい。どうしても知りたい。何を書いているんだ。もう少し男に近づいて右手の動きを見たいが、これ以上やると怪しまれそうだ。打つ手なしか。クソ。こっちの気が狂いそうだ。

 だらだらと続いた『To Heart』のアニメは何の合図もなく急にブッラクアウトし、やっとファイルが終了したことが分かった。今思い出したが、クイックタイムの画面の下には進行具合を知らせるバーがあったはずだ。僕はそれを見落としていたらしい。それにしても長かった。相当重いファイルなんだろう……と思っていたら男はまた最初から観始めやがった。なんなんだこいつは。

 初めの方は未観のシーンだったので新鮮だったが、さっき観たシーンが流れ出した途端にダルくなった。そこで、アニメの内容とは別の作画や映像に注目するようにした。観たところ作画はまあまあ良い方だと思う。少なくとも紙芝居じゃない。驚いたのは、パソコン上の再生なのに映像は下手なテレビよりもずっと綺麗だったことだ。小さいウインドウだからという理由もあるが、それにしても綺麗だと思った。

 二度目も観終わった。シミュ研の男はそそくさとパソコンの電源を切って、机に散乱していたフロッピーや何かの暗号のようにも見える謎の数式でぎっしり埋まったプリント(理系だろうか)をガサガサと乱暴に鞄へと入れ、イスを机の下にかたさず端末室を出ていった。

 ところで、その男はイヤホンをしてなかったが、音なしでも楽しかったのだろうか。

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